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BLACK=OUT 2nd

第十章第四話:たった、それだけが

 征二が目を覚ましたのは、ノースヘルの自室だった。これと言って何も置いていない殺風景な部屋は、征二が最後にこの部屋を出てから何も変わっておらず、あれから誰も手を入れていないことが窺える。隅にまとめて置かれた私物は、そのままに積まれていた。
「気が付いた?」
 不意に声を掛けられ、征二は視線だけでその元を探す。自分が寝ているベッドの脇に、ライカが座っていた。そうだ、あの時——連隊長室にはライカもいた。そこで水島に「処分」を告げられ、そして。
「僕は、まだ、生きてるの?」
 ライカは——少し辛そうに顔を歪め、すぐに気持ちを切り替えたように、身を乗り出した。
「征二、ここを出よう」
 それは、懇願するようだった。少女が必死に願うのは自身のことではなく、征二の身の安全だ。彼が「処分」されることを、ライカは何としてでも阻止しようとしている。水島にも掛け合ったのだろう。だが、駄目だった。だからここから逃げようというのだ。
 しかし。
「ここを出て、どうするんだ……」
 打ちひしがれたように征二が呟く。我を忘れた、頭に血が上った先の顛末だったが、記憶にない訳ではない。はっきりと、克明に覚えている。
 ——征二は、水島を殺そうとしたのだ。
「僕にはもう、どこにも居場所なんてない。僕は和真の偽物で、代わりでしかなくて、それすら僕じゃ不十分で……。挙げ句僕は、水島さんを——」
 唯一の寄る辺を失い、それでもどこかに安住の地があると。無垢に信じて彷徨えるだけの繋がりはもう断ち切ってしまった。他ならぬ、自分の手で。
 何も持たない征二を征二たらしめていたのは水島だ。その水島が征二を否定し、征二もまた水島を否定した以上、征二はもう——征二ではない。
「そんなことない、征二にはまだ私がいる。誰が征二を否定したって、私があなたを知っている。私がここにある限り、あなたはずっと征二だよ」
「君には——帰る場所があるだろう!」
 ライカがはっきりと、傷付いた顔をした。一瞬しまったと思うが、もう止まらない。頭の中はとっくにぐちゃぐちゃで、何もかもがもう限界だった。この先は言うべきじゃない。言えばライカを傷付ける。それを分かっていても、なお口は止まらない。今更ライカを傷付けることに、何の恐れがあるのだ。もう——何も、残ってないのに。
「だから大丈夫だって、だから平気だって……そんなことを言えるのは、ライカがライカだからだろう? ここに居場所があって、自分が誰なのか、はっきり言えて。僕にはない、何もないんだ。僕が僕だと信じていたものは、全部嘘で出来ていて、それでも、それだけで、たった、それだけが!」
 その一言一言が毒の塗られた刃で、深く、長く切り付けるように、ライカの心を裂いていく。言葉でライカを傷付けるたび、征二もまた同じように傷付いていく。分かっている。これはわがままだ。飴を欲しがる子供の駄々だ。そんなことをライカに言っても、彼女には何も出来ないのに。言葉でライカを傷付けて、そしてきっと、ライカは何も出来ない自分に傷付いて。人に向けた刃で自分も傷付いて、ライカを傷付けた事実に傷付いて。誰ひとり幸せになれない、最低の泣き言だ。その根底にあるライカへの甘えが、また否応なしに征二を叩きのめす。
「いいんだ……だからもう、いいんだよ、ライカ……」
 どの道、ここはもう、自分の居場所ではなくなった。いや、自分という存在そのものが嘘だったのだ。海原に投げ出された、頼りない一枚の木の葉は、当てもなく波に揺られ、流されて、揉まれ、そして呑まれるしかない。水島征二という存在は、もう終わりだ。
「——私が、行く」
 束の間の静寂の中、はっきりと聞こえた声に、征二は顔を上げた。そこにいたライカは、悲しむでもなく、怒るでもなく、凛と背筋を伸ばしている。その目は真っ直ぐ揺るぎなく、吹けば折れそうな征二とは対照的に、泰然と座していた。
「私が征二を連れて行く。征二を一人になんてしない。私があなたを繋ぎ止める。繋ぎ止めてみせる」
「だ、ダメだ! 僕を連れてノースヘルを出たら、君は間違いなく反逆者だ! 君の帰る場所が、君の居場所までなくなってしまう。そんなのは絶対にダメだ!」
「それが、何?」
 征二は慌てるが、ライカは涼しい顔をしている。事もなげに、自分の根源を捨てるというライカ。混乱する征二の様子を見て、ライカがくすりと笑った。
「征二とノースヘル、どっちを選ぶかって訊かれたら、君を選ぶよ、私はね。ただそれだけ」
「それだけ、って……」
 征二は絶句した。自分が拘りしがみつくものを、いとも容易く切り捨てる。それは征二には理解できないし、しようがないことだ。
 混乱のまま、決めかねている征二の腕をライカが取って立ち上がる。
「さあ、行こう。どこに行けばいいのか、その当てはないけど。でも、このままでいいわけがないって、そう思うから」
 ライカが力強く笑ってみせる。しかしその手が小さく震えていることに、征二は気付いた。
 ——当たり前だ。知っている場所を離れる、自分のすべてを否定する。それは、怖いことだ。ここで生まれ、そして死んでいくと、そうフォーは言っていた。それがノースヘルで作られた、自分たちの生き方だと。どこへも行けない征二とライカたちはよく似ていて、だからこそライカは、征二に興味を持ったのだろう。
 征二のすべては、瓦解した。だというのにライカは、自らそれを捨てようとしている。少なくとも——自分が今、こんなところでいじけている場合ではない。
 よろよろと、征二が立ち上がる。何もかもを失くした自分に残された、たったひとつの抗い。
 ——せめて、ライカに応えたい。
 歩き出そうとして、異様な感覚に足元が崩れた。倒れそうになる征二を、ライカが慌てて受け止める。一緒に倒れ込みそうになりながらも、かろうじてライカは持ちこたえた。
「征二?」
 心配そうなライカの声は、しかし征二の耳には届かなかった。今まで体験したことのない感覚に襲われ——それに飲み込まれそうになるのを耐えるのに必死だったからだ。
 最初はそれを、自身の中にいる日向の声だと思った。心の中、奥底のふたの内側で何事かを喚いている声がする。不明瞭だったそれは徐々に大きくなり——そして、それは一つではないのだと、ようやく征二は理解した。
 千か、万か。数え切れない声が、己の沼からせり上がってくる。日向の声ではない。日向は、一人しかいない。
 無数の声は、それぞれ違う記憶と人格をもって、征二を飲み込もうとしてくる。その声ひとつひとつを征二の無意識は理解し、噛み砕こうとしていた。このままではいずれ脳が焼き切れるだろうと征二は直感する。
 だが、どういうことだろう。どこかで似たような感覚を味わったような気もする。
 喩えるなら、咀嚼するようなものだ。口の中にモノを入れ、嚥下するための行為。口いっぱいに、様々な味の食べ物を放り込んだため、咀嚼すらままならない状態。強いて言うなら、それが近い。しかし何か、もっと近い感覚があるはずだ。
 外から何かを取り込む行為。それを順に巡らせ、ある一点に思い至ったとき、征二は込み上げる吐き気と共に愕然と目を見開いた。
 これは、封神の力だ。

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