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魔法の詞の贈り物

 夢を、見ている。
 覚醒夢というやつだろうか、自分が、夢を見ていることを認識できる。
 私はずっとずっと上から、この世界を俯瞰していた。
 この景色は見覚えがある。いや、あるなんてもんじゃない、ここは私が住む神社だ。色を失くしたような石段、その中で一際鮮烈に存在を主張する、朱い鳥居。――まるでそこにだけ、色が在ることを許されたかのように。
 その鳥居の下、周りに溶け込むように、青灰の髪の少年がひっそりと座っている。
 七つ八つくらいだろうか、黒いトレーナーを着ているので体格は解らないが、線の細い印象。
 そうだ、知っている。私は、この子を。
 私がずっと小さい頃、一年ほどの間だけ家で預かった従兄弟の子だ。確か、私より一つ年下だったはず。
――どうして、今頃になって彼を夢に見るのだろうか。

 その子は、身を縮めて、ただ座っていた。
 身動ぎもせず、石段の一番上から、遥か下を見下ろして。

「かーずちゃん」
 どこからか、小さな女の子の声がした。
 そういえば、彼のことを「かずちゃん」って呼んでいたっけ。
 でも名前が思い出せない。というより、元から知らなかったんじゃないだろうか。
 私はしばらく考え、しかしそれはパタパタと響く足音に中断される。見れば、本殿の方から声の主であろうおかっぱ頭の女の子が走って来ていた。
 上は純白の単……と言いたいところだが、よく見れば所々に泥が跳ねた跡がある。鳥居以外では唯一、この色の無い世界にアクセントを与える朱袴も、足元はだらしが無いほどに汚れていた。
 大きく垂れた袖を振りながら少年に駆け寄った少女は、彼の前に回り込んで見下ろすように、言った。
「何してんのさ、こんなトコで。石段冷たいし、風邪引くよ」
 じっと座り込んでいた少年が、初めて動きらしきものを見せる。
 ゆっくりと、顔を目一杯、上へ向けて。
「みこと」
 ただ、それだけを口にした。
 名を呼ばれて、ようやく私は全てを思い出す。
 これは私が九つの年、その冬に実際にあったことじゃないか。ってことはつまり、あの泥だらけの女の子は私……ということで。
 思い出したことに少し後悔しながらも、何だか懐かしい気持ちで、私は二人を眺める。

「お前だって、そんな格好じゃ寒いだろ」
「かずちゃんとは鍛え方が違うもん。おかあさん厳しいし」
 そう言って少女は、帯の背中に差していた――子供用の木刀を引き抜き、ぶん、と振って見せた。そう、冬の道場は寒いなんてもんじゃない。
「鍛えて、どうすんのさ」
 少年は興味なさげに、また石段の下へ視線を戻す。少女はと言えば、そんな彼の態度を気にも留めずに木刀の素振りを繰り返していた。
「わるいひとを、やっつける」
 少女の言葉に少年は、今度ははっきりと反応した。首を回し、自分の横に立つ彼女をじっと見つめる。
「わるい……ひと?」
「そう、わるいひと」
 にっか、と極上の笑みを浮かべて、少女は木刀を横に一閃した。おかっぱの前髪が、頭の動きに遅れてゆらり流れる。
「わるいひとは、みんなを困らせるから、やっつけるの」
 少年は、木刀を振る少女を、ただじっと見つめている。わるいひとを、やっつける――そう何度も、呟きながら。
「ぼくも……」
 寂しそうな、でも真剣な顔で。
「強くなったら、わるいひと、やっつけられるかな……?」
 少女はまた、にっかと笑う。彼女の――私の答えは、決まっていた。

 それから何度も、少年と少女はチャンバラをした。
 チャンバラ“ごっこ”ではない。
 遊びじゃなかった。……彼にとっても、彼女にとっても。
 最初は女の子みたいに華奢だった彼の手も、気付けば豆だらけになっていた。

 白い吐息を、風に溶かして。
 少しずつ深まる冬の中、二人は、ずっと打ち合っていた。

 彼はチャンバラが好きだった。
 でも、一度も笑わなかった――。

 あの頃の私には、大人の言うことは難しくてよく解らなかった。
 自慢じゃないけど、これでも同年代の子たちに比べて、ずっと頭は良かったと思う。かずちゃんだって、難しい言葉をいくつも知っていたし、今考えても、子供離れした、ある意味で達観した感性の持ち主だった。
 だから、大人の言うことが難しかったというよりも、私の周りにいる大人は、みんな難しいことを言う人ばかりだった、というのが正しいと思う。
 『ほうしん』がどうとか、『ぶらっく何とか』とか、さっぱりだった。
 けど。
 『かずちゃんのお母さんは、殺された』という母の言葉だけは、鮮明に覚えている。

 だから、かもしれない。
 私が、彼にチャンバラを教えた理由。
 きっと。
 私は私なりに、彼を励ましたかったのだ。
 自分の好きな人が泣いているなんて、嫌だったから。

 この町に雪は降らない。
 山の向こうは降るらしいけど、こちらの冬は澄み切って――清冽に晴れ渡った、けど寒い、乾いたものだ。『冬らしい重く垂れ込めた雲』の、どこが冬らしいのか、と未だに私は思う。
 でも、日が翳ると途端に冬は色を失って。
 全部が、灰色に塗り変えられるのだ。

 あの日も、そうだった。
 色を失くした境内で、少年は立ち木を相手に、ひたすら木刀を振っている。
 動きは滅茶苦茶だ。ただただ、想いをぶつけるだけの太刀筋。乾いた音は澄んだ空へ、そして境内へと無遠慮に響き渡る。
「かずちゃん、まだやってたの?」
 社務所の影から、ひょっこりと顔を出したのは私。この社と私の袴の朱だけは、色を失っていない。鮮やかに、灰色の世界で異彩を放つ。
 少年は立ち木に向いたまま、うん、とだけ答えると、また木刀を構えた。
「チャンバラ、好き?」
 少女はゆっくりと、少年の背に向かっていく。
「わかんない。けど、やりたいんだ」
「それ、好きってことだよ」
 少年が木刀を打ち鳴らす。リズムも何も無い、ひたすらの乱打。
「好きならさ……笑わなきゃ」
 笑ってくれないと不安だった。
 だから、こんなことを言ったのかもしれない。
 少年は応えなかった。きっと今も、眉間に皺を寄せて歪な立ち木を睨んでいるのだろう。
「好きなことは、楽しいよ。楽しいと笑うもんだよ」
 笑って欲しかった。
 それだけだったんだ。
 澄んだ音が次から次へと冬の空気を震わせて、幾重にも幾重にも波紋を描く。
 ふと、その音が止んで。
「笑い方なんて……」
 少年は腕を下げ、木刀の切っ先は地面に刺さっている。
「わかんない……わかんないよ、ぼく……」
 肩が震えている。顔は下を向き、吐き出すように、漏らすように、少年はそう言った。

「めりーくりすます!」
 少女は、私は、声を張り上げた。沈み淀んだ空気を、かき混ぜるように。
「な……何? それ」
 突然のことに面食らい、思わず振り向いた少年に、私は言った。
「詠み詞」
「よみことば?」
「言葉には、意味があるんだよ」
 私は、少女である私は、少年にずいと顔を近付ける。
「心を込めて言えば、その人に伝わるの。その秘術。ウチに代々伝わるやつ。おかあさんが言ってた」
「秘術……って秘密なんでしょ。しゃべっていいの?」
「いいのっ」
 言わなきゃいけない気がした。
 誰かが泣いてもいいなんて、思えなかった。
「めりーくりすます、の“めりー”は、“楽しい”って意味なんだよ」
 今日はくりすますだよ、と少女は言った。
「だから、めりーくりすます!」
 何度も、何度も言った。
 繰り返し言った。
 この声が、この想いが。

――彼に、届くように。

「めりー……くりすます」
 恥ずかしそうに、ちょっと照れた様子で少年は呟いた。
 その顔は、少し困ったようで――

 そして確かに、笑ってくれた。

 いつの間にか、日は暮れていた。
 夕陽は、少しだけ灰色に朱を差してくれたけど、沈んでしまえば、あとは黒く塗り潰されるだけ。
 空の端が、薄ぼんやりと橙に滲んでいる。
 少女と、そして少年は。
 言葉も無く、ただ空を見ている。
 いずれ消えていく、この色を惜しむように。

 その時だった。
 黒に沈むはずだった境内に広がる、嘘みたいな光景。
 二人を中心に、一斉に全ての色が踊りだす。
 鳥居や社が色鮮やかに、幾色もの電光を無数に瞬かせて。
 綺麗だった。
 本当に、綺麗だった。

 見上げればそこには、冬の澄んだ空に零れそうな星々があって。

 だからそれは、きっと。
 魔法の詞がくれた、贈り物。

 並んだ二人はいつまでも、煌く電飾を眺めていた――。

「んあ?」
 むくり、と布団から起き上がる。何だか懐かしい夢を見ていた気がするけど……何だっけ?
「ふわぁ……っ。んーっ、今日はめでたいクリスマス、じゃあありませんか!」
 がばり。
 布団を跳ね除け、飛び起きる。
「んー、やっぱ寒いなぁ。うわっ、窓真っ白だし!」
 しばらく、結露した窓に落書きを楽しんでいると、背後で部屋の戸が開く音がした。
「あら、起きたの」
「母さん……その手の木刀は何ですか?」
「目覚まし時計」
 うわあぶなっ。目が覚めてよかったよ。
「起きたのなら、着替えて早く下へいらっしゃい。禊、済ませるわよ」
「はーい。……あ、母さん」
「なぁに?」
 母が笑顔で振り返る。何となく、それが嬉しい。その当たり前が、嬉しい。
 だから私は母に詠む。どこかで、誰かに言った、その詞。
「メリークリスマス」

 窓の外、見上げれば、そこは淡い青を溶いたよう。
 寒くて乾いた、だけどどこまでも続く、澄んだ空――。

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