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BLACK=OUT 2nd

第五章第二話:存在証明

 非常灯だけが灯りの落とされた廊下を淡く照らす中、浮かび上がるラウンジ。その中で、一人の影が動いた。椅子に腰掛けたまま、天井を仰ぐ。テーブルの上では、眼鏡がひとつ、その蔓に冷たく照明を反射して置かれていた。
 目隠しをするように右手で目を覆い、身動ぎもせず、宵闇の底に体を沈める。呼吸の音も聞こえない。無音の中に溶け込むように、意識の全てを思考に注ぎ込む。
「お疲れ。いやー、今日は大変だったね」
 不意に背後から掛けられた声に、指の隙間からその出処を探る。
「……命か」
 神林は宮葉小路の隣に座ると、彼の前に紙コップを置いた。
「紅茶じゃなくてゴメンねー」
 構わない、と宮葉小路は体を起こし、紙コップに口を付ける。
「自販機の紅茶は飲めたものじゃないからな。それならまだコーヒーの方がいい」
「四宝院くんは部屋に戻ってるしね。叩き起こしても良かったんだけど」
「紅茶を淹れさせるためだけにか? やめてやれ、横暴すぎる」
 優しいなぁ利くんは、と神林は自分の分のコーヒーを飲み干した。
「何考えてたか、当てたげよっか」
 空になった紙コップをクシャっと潰し、神林はゴミ箱に放り投げる。紙コップは吸い込まれるようにゴミ箱の中に消えた。
「クイズにならないだろう、それは」
 それもそうだよね、と神林が笑う。
「征やん……ううん、和真のことでしょ」
 今日の――δ区での戦闘で、征二は予想を超える働きを見せた。シールド能力を持っているとはいえ、あの状況下でマインドブレイカーに突っ込んでいくなど、そうそう出来ることではない。
「いやぁ、今日は征やんに助けられちゃったね。あの子が来てくれなかったらあたしどうなってたことか……」
「馬鹿言うな。お前があの程度の敵に一撃食らったくらいでくたばるタマか。そもそもレジストが間に合わないタイミングじゃなかっただろう」
 宮葉小路に突っ込まれ、神林は悪戯っぽくペロリと舌を出した。
「どっちかと言えば、助けられたのは利くんの方だよね」
 その通りだ。宮葉小路を狙った頭上からの奇襲攻撃――あれを征二が防いでくれなければ、もっと状況は悪くなっていただろう。最悪、誰かが死んでいたかもしれない。今この隊では、神林が足止めを、マークスが補助を、宮葉小路が殲滅を担当する形で役割を分担している。一方で神林は一対多の戦闘に弱く、マークスは火力に不安があり、宮葉小路は近接戦を苦手とするという弱点がある。宮葉小路が倒れれば、火力不足でジリ貧になっていたかもしれない。
「本人は意識していないだろうが、あれも和真の影響だろう。あいつのメンタルフォース感知は並外れていたからな」
「いよいよ征やんが和真だとしか思えないよね」
「僕は元々、水島が和真であることには確証を持っているけどな」
 首を傾げる神林に「マークスにはまだ言うなよ」と釘を刺し、話を続ける。
「僕の考えでは十中八九、水島は和真の別人格だ。恐らく、彼のBLACK=OUTだろう」
「BLACK=OUTって、あたしたちが自分の精神を守るために忘れた、嫌な記憶で構成されたもうひとつの人格だよね? メンタルフォースの源でもある……」
「ああ、そうだ。人間なら通常は誰もが持っている、負の人格のことだ」
「でも和真は、二年前の事件で自分のBLACK=OUTを解放したはずでしょ? だからBLACK=OUTは持っていないんじゃないの?」
 勿論そうだ、と宮葉小路は頷いた。
「だが、BLACK=OUTを失えば、主人格は極めて不安定になる。負の記憶を受容していたBLACK=OUTの代わりに全ての記憶が主人格に流れ込み、精神は傷付き、その傷はまた別の人格を生み出す。その二つの人格は互いに傷つけ合い、新たな傷が新たな人格を生む。それが際限なく繰り返され、やがて死に至る――そのことは、以前にも話したな?」
 だが、征二に人格が変遷している様子はない。
「過去に例のないことだが、あいつは生きている。そしてメンタルフォースが使えている以上、発生した人格がBLACK=OUT化したと考えるのが自然だろう」
「でも、それだけだと征やんが和真だっていう証拠にはならないんじゃないの?」
 神林の指摘はもっともだ。今言った理由だけなら、彼がメンタルフォーサーだということにしかならない。
「勿論他に理由はある。彼は二年より以前の記憶を失っているが、その記憶を取り戻すことに無頓着だ。これは彼の人格が、解離性遁走によって発生した別人格であることを示している」
「かいりせい……とんそう?」
「何らかの障害から自分の精神を守るために、別の人格を作り出す記憶障害の一種だ。仕事や家族の重圧から逃れるために解離性遁走に罹患し、全く別の地で別人として十年以上生活した男性の例がある。特徴として、日常生活に必要な知識は失っていないにもかかわらず、パーソナルな部分の記憶は完全に失われていた。名前や生年月日、性格など、およそ彼が彼であることに繋がる全ての記憶だ。そして、総じて解離性遁走患者は記憶の喪失に頓着しない。記憶がないことに対する不安感もなく、取り戻そうという意欲もない。これはそもそも記憶の喪失が自身の精神を防衛するための反応であることを考えれば実に自然なことだ。つまり、彼の無意識は記憶を取り戻すことを拒んでいる」
 征二が初めてB.O.P.を訪れた時、宮葉小路は彼の記憶に言及した。しかし征二は、記憶を取り戻す気はないと明言したのだ。
「加えて、水島は水島柾の元で二年近く生活していたにもかかわらず、特殊心理学の知識が全くなかった。どう考えても、彼の解離性遁走の主体――主人格にとって、覆い隠したい記憶だったとしか思えない。つまり彼の無意識は、意図的に特殊心理学の情報をシャットアウトしていた」
「うーん……難しいことはよく分からないけど、和真は解離性遁走による解離性同一性障害に罹患、何かが原因で別人格がもう一度BLACK=OUTになって、それが征やんだってこと?」
 神林は、今にも頭から煙を噴きそうな顔をしている。あまり考えるのは得意ではない。
「僕の考えではそうだ。それなら水島と和真のDNAが完全一致したことも頷ける」
 だが、問題はここからだ。征二が解離性遁走による別人格だとするなら、無理矢理日向の人格を引っ張り出すことは、どうやら安定しているらしい現在の精神的バランスを崩しかねない。いや、まず間違いなく崩してしまうだろう。
「和真を呼び覚ますことは、事実上不可能だ。彼自身が遁走の原因が取り除かれたと判断しない限り、あいつの人格は無意識下の意識階層から浮かび上がってくることはないだろう」
「……そっか……」
 神林は俯いて、悔しそうに唇を噛む。
「つらいね……マークスちゃんは……」
 日向を取り戻すことは出来ない――その事実は、今なお彼を想う少女に伝えるには余りに重すぎた。

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