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BLACK=OUT 2nd

第七章第四話:その貌は

 γ区は、ひと気がなく静かだった。時間は昼前、平日の住宅街となれば些かの不思議もなく、人々の棲家はもぬけの殻としてそこにある。辺りを見回しても人影はなく、耳を澄ませても大して聞こえてくる音もない。そんな空間に一人で立っているマークスこそ、ここでは異物のような存在だ。
 午前中だけオフを貰ったマークスは、水島柾の生家を訪ねようと思っていた。当初の調査で得た偽の情報ではなく、卒業アルバムから辿った本物の彼の実家だ。
 わざわざ訪ねる意味は、と問われれば、そんなものなどないのかもしれない。情報部が既に調べた後だし、何より水島の実家には、もう誰も住んでいないことが分かっているからだ。
 人の気配のない町を歩く。デバイスのデータを頼りに進むと、程なくそれは見付かった。
 何の変哲もない、小さな家だ。背の低い門扉は閉ざされ、窓は雨戸が閉められている。長く誰も手入れしていないのだろう、猫の額ほどの庭は荒れ果てており、幾つかの植木鉢が割れ、中の土が白く固まっていた。くすんだ色の小さな家は両側をもう少し大きな家に挟まれ、より一層小さく縮こまっているように、あるいは押し潰されているように見える。この家は、いつからその時間の歩みを止めているのだろう。
 しばらく建物の様子を窺っていたが、やはり人の気配はない。誰かが管理しているようにも見えないし、水島もわざわざここへ戻ってくるようなこともないのだろう。捜査権限があるわけでもなく、中に入ることは出来ない。マークスはしばらく、門扉の前に佇んでいた。
「あの……」
 不意に背後から掛けられた声に振り返ると、そこには初老の人の良さそうな女性が立っていた。
「あなた、水島さんの知り合い?」
「いえ……水島柾のことですか?」
 マークスが首を傾げると、女性は柔和な顔で嬉しそうに笑った。
「あら、やっぱり水島さんの……。良かったわ、心配していたのよ。あの事故の後引っ越してしまったし、私も別の土地へ移ったから連絡が取れなくなって。彼は元気かしら? 再婚は……してないのでしょうね、水島さんのことだから」
「事故? 再婚?」
 マークスが聞き返すと、女性はあら、と手を口に当てた。
「ごめんなさい、私ったら。ご存知なかったのかしら? そうよね、こんなこと誰にでも話すような人じゃなかったし……」
「直接の知り合いじゃないので……良ければ、彼のことをお話し頂けませんか? お時間があれば、ですけど」

 ごめんなさいね、と女性は笑った。
「でもこの喫茶店は私の馴染みなの。ここなら少しくらい長居したって怒られないわ」
 悪戯っぽいその笑顔に釣られ、マークスもくすりと笑う。
「今日はお友達の所にいらした帰りなんですよね?」
「ええ、そうなの。引っ越す前に懇意にして頂いていたお家でね、今でもたまに会ってるのよ」
 テーブルの上ではコーヒーが湯気を上げている。宮葉小路の趣味で普段は紅茶なので、この香りは新鮮だ。
「水島柾……さんは、確か早くに奥さんとお子さんを亡くしたと聞いたんですが、事故? 初耳です」
 マークスが尋ねると、女性は痛々しく顔を曇らせた。
「水島さんから聞いたのだけど、サイコロジカルハザードに巻き込まれたんですって。ほら、あのα区が大変なことになった……」
「最初のサイコロジカルハザード……家族はその犠牲者……?」
「ご両親は早くに亡くなられていたし、誰もいないあの家に残るのは辛かったのでしょうね。私もこの話を聞いてから一度も会わないまま引っ越されて――」
 何と声を掛けていいか分からなかった、と女性は呟いた。
「彼は今、どうしているのかしら」
「再婚はしていないようですよ。でも養子を迎えて、二人で暮らしていたようです」
「そうだったの……立ち直っていたらいいのだけど。私は、何もしてあげられなかったから――」
 女性は沈痛な面持ちでコーヒーに口を付けたが、すぐ自分に言い聞かせるように「でも」と続けた。
「養子を取ったのなら、きっと元気になったのよね。私がご挨拶に伺っても平気かしら」
 マークスは慌てた。もしこの女性が水島と接触したら、マークスが水島の本当の過去を知っていることが伝わってしまう。
「その……申し訳ないんですけど、今は居場所を教えることが出来ないんです。ごめんなさい」
 怪訝な顔をする女性に、マークスは身分証を提示した。
「B.O.P.……あなたが?」
「私は、ある事件の調査で水島柾を調べています。まだ彼が関係しているかどうかは分からないんですけど、もし彼が何らかの関わりを持っていた場合、あなたや、水島柾の身に危険が及ぶ恐れがあります。ですから……お教え出来ません」
 女性はありありと落胆の色を浮かべ、深くため息をついた。
「そう、そうだったの。……もし全部終わったら、その時は――水島さんとお話させてもらえるかしら」
「ええ、約束します」
 マークスは固く、女性の手を握った。

 ありがとうと礼を言って、マークスは女性と別れた。喫茶店の前で手を振る女性は少し心配そうな顔をしていて、マークスが伝えた建前は、きっと彼女も察しているのだろう。あの女性は、ただ近所付き合いがあっただけの水島に対して、あんなに心配しているのだ。
 ――それが、水島柾の人となりによるものだっていうなら。
 それは演技だったのだろうか。それとも、サイコロジカルハザードをきっかけに変わってしまったのだろうか。どちらだとしても、マークスは納得がいかない。
 出勤時間が近付いてきた。そろそろ本部に戻らないといけない。
 昼を過ぎたからか、誰も歩いていなかった街路にぽつぽつと人影が増え始めた。この辺りは高級住宅街とまではいかなくても、中流以上の家庭が多い。マークスの前を歩く、先ほど家から出てきた主婦も品の良い格好だ。
(私も結婚したら、あんな奥さんになりたいな……)
 何となく、前を歩く主婦を目で追っていたマークスだったが、やがて奇妙なことに気が付いた。
 手提げのバッグを持った右手が、小刻みに震えている。それは徐々に大きくなり、そして身体全体をびくん、と大きく痙攣させた。一旦はそれで収まるものの、すぐにまた右手が震え始め、身体を震わせて終息する。それが何度も、周期的に繰り返されるのだ。
「あの……大丈夫ですか?」
 心配になったマークスは、後ろから声を掛けた。もしかしたら、何かの病気かもしれない。
「はい?」
 主婦は右手を震わせたまま応えた。その声は明るい調子で、とても体調が悪そうに見えない。
「いえ、具合が悪そうだ……っ!?」
 ゆっくりとこちらに振り向いた主婦を見て、マークスは凍り付いた。

 振り返ったその顔面を覆って、大きな虫のような物が張り付いている。

「どうしたんですか?」
 痙攣する主婦が、虫を顔に張り付けたまま首を傾げる。その身体が、びくんと跳ねた。

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