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屠殺のエグザ

第十二章第四話:紅 と 蒼

 宗一の宣言に、勝ち誇った様な響きはなかった。まだ途上、彼の、彼らの目的は、〈析眼〉を手に入れることではない。
 たった一つの願いへ向かう、頑なな決意。決して折れぬ、文字通りの宣誓。
「さて、じゃあ君はもう用済みだ。丁重に、送り出してあげようか」
 宗一が晶に手を伸ばし、晶の左眼に、その影が映る。晶は眼を細めた。額に浮いた汗が、コンクリートに染みを作る。床に転がり、二人の〈エグザ〉に見下ろされ、徒人は立ち上がる気力さえ持てない。
 宗一の手が、触れる。
「僕の〈換手〉は〈複製〉持ちだ。やっと、やっとこの力が使える」
 宗一の声は、微かに震えていた。
「それじゃ、さようなら、村雨晶」
 晶は、最後に一度だけ、こよりを見た。こよりは、晶を見てはいなかった。

 零奈は、何度目かのため息をついた。右手には携帯、画面には晶の番号が表示されている。その画面を睨んだまま、零奈の指は通話ボタンの上を行ったり来たりしている。
 今日、晶がこよりの家へ行くことは知っていた。本来ならーー零奈もこっそりついて行き、晶を影ながら護衛すべきだった。だが。
 ーー文字通り、出歯亀ね。
 再び、深いため息。あまりいい趣味でないことは自覚しているし、ひどい寂寥やこよりへの嫉妬を、改めて確認しに行くだなんて馬鹿げている。
 だが、気になるのも事実だ。晶がこよりしか見ていないとしても、そこに自分がいなくてもーー晶の生活に零奈という存在を混ぜ込みたいと思うのは、いけないことだろうか。
 ふっ、と自嘲の笑みが零奈の口の端を片方、吊り上げる。いけないと思っていなければ、今迷ったりはしまい。本当は浅ましいと、往生際が悪いと、ただのエゴだと知るからこそ迷うのだ。その上で押し通せるほど、図々しくはなれない。
 そのような体たらくで、かれこれ三十分近く同じ姿勢で固まっている。電話するのか、しないのか。いずれにせよ何らかの決断をしなければならなかったが、その瞬間はついにやってこなかった。手の中の携帯が振動し、画面の名前が別人のものに変わる。着信、相手は、真琴だ。
「もしもし? 私だけど」
 電話を受けた零奈の顔色が、変わった。
「そ、そう。晶は? 晶は今どこ?」
 返事を待たず、既に零奈は走り出していた。電話を切ってもなお、頭の中を雑多な思考が迷走する。
 晶を裏切った? あの子が?
 どうして晶をちゃんと見ていなかったの?
 眼を奪われたって、どういうこと?
 晶は

 晶は、無事なの?

 血の色に染め上げられた街を、零奈は疾駆する。
 不安から逃げるように。
 不安に追い立てられるように。
 夕陽の映す長い影を踏んで、零奈は走った。

 眼が覚めると、見覚えのない天井が不鮮明な視界に入った。ここはどこなのか、胡乱な頭で考える。
 と、その視界に、見知った顔が割り込んだ。
「晶! 気が付いた? 大丈夫?」
 心配そうな顔。今まで彼女のこんな顔は見たことがない。
「零奈……先輩?」
 これが自分の声かと驚くほど、呟いた声は掠れていた。しかし零奈は、晶が喋ったことで安心したのか、力が抜けたように息を吐いた。
「よかった……本当に……」
 心配させてしまったのか。謝ろうとして、ふと視線を横に流すと、ドアの傍にもたれ立つラーニンの姿が眼に入った。
「〈疾風の双剣士〉も来ている。今は売店へ買い出しに出ているが。医者によると、とりあえず命に別状はないようだ。村雨晶、何があったか覚えているか?」
 晶は、眼を伏せた。この右眼には、もう世界の本質は映っていない。右眼は、奪われた。
「もう一度確認したい。君の右眼を奪ったのは誰だ?」
「……こよりです」
「その右眼は、誰のものだ?」
「こよりの弟の……宗一君の……」
 ふむ、とラーニンが唸った。
「つまり、君の眼は今、倉科宗一が持っているということか」
 晶は答えず、頭を反対側に回した。窓から外の景色が見える。朝か、夕方か、陽が傾いでいることは分かるが、それ以上は伺えない。
「……ここは、病院ですか?」
 丸二日、眼を覚まさなかったと零奈は言った。
「〈疾風の双剣士〉から連絡があったの。晶が街中で倒れているのが見つかって、ここに搬送されたって。ここは、〈協会〉絡みの病院だから。だから、あなたの眼が奪われていることも、分かった」
 奪ったのはあの子なのね、と零奈はため息と共に呟いた。
「何があったのか、もう少し詳しく説明してくれないか。事と次第によっては、〈協会〉にとっても看過出来ない事態だ」
 ラーニンが、言葉を選びながら促す。晶はポツポツと、こよりの家に行ったこと、そこで眼を奪われた経緯を話した。
「その後、多分〈移動〉能力だと思いますけど、外に飛ばされて、あとは覚えていません」
「なるほど、君は確か、〈四宝を享受せしもの〉と戦った際、同様の攻撃を受けているな」
 頷く晶に、だが、と難しい顔で、ラーニンは続けた。
「倉科宗一が〈複製〉持ちの〈換手〉を有しているとなると……更に〈変成〉持ちの〈析眼〉まで手に入れたことになる」
 懸念を滲ませるラーニンが、宗一を「敵」と認識しているのは明らかだ。
「晶の眼を奪って、彼は何をするつもりかしら……」
「俺にも、よく分からないんですけど。ただ、『〈此の面〉を壊す』『世界を作り変える』みたいなことを言っていました」
「確かに、君の眼があれば不可能ではないが……」
 ラーニンは釈然としないようだ。この世界が表裏一体の構造である限り、〈此の面〉の影響を〈彼の面〉も受ける。〈此の面〉を壊せば、〈彼の面〉も壊れる。選んで壊すなど、出来はしない。
 ましてや、〈析眼〉も〈換手〉も、世界そのものに干渉することは出来ない。直接的に世界を変えることなど出来ないのだ。
 晶はもう一度、窓の外を見た。そこはもう、昏かった。

 異物、つまり宗一の眼が、今の晶の右眼だ。拒絶反応が出る可能性もあったが、今のところその様子はない。目立った外傷もないので、明日には退院出来ることになっている。
「大事がなくて良かったですね。〈急進の射手〉さんなんて、凄く心配して、ずっと付きっきりだったんですから」
 真琴が、花瓶を窓際に置きながら言った。零奈とラーニンは、今後の対応を話し合うため、一足先に〈協会〉に戻っている。
「お前は戻らなくていいのか? 会長の娘だろ」
 花瓶に落としていた視線を晶に向け、真琴は少しだけ、眼を細めた。
「一人になりたいですか?」
 意地悪な問いだった。そんなこと、落ち込んでいると言っているようなもので、だから絶対に言いたくないのに。
「残念ですけど、会長の娘とはいえ、〈協会〉での立場はあくまで『駆け出しの〈エグザ〉』です。トップクラスが集う会議に、席なんてありませんよ。晶先輩は一人にして欲しいでしょうけど、ダメです。ボクは、ここにいます」
 真琴の静かな、しかし強い口調は、晶がこれ以上我を張っても無駄なのだと悟らせるに十分だった。ここから先は、ただのワガママだろう。
「……認めたくないんだよ、落ち込んでること」
 折れたように、晶は力なく呟いた。
「知ってた。覚悟してたはずだった。でも、いざ自分がこよりにとって不要になったら……結構、きつい」
 そうですよね、と真琴は、視線を再び花瓶に戻した。
 直接西陽が入ってきているわけではないが、すっかり傾いた陽光は紅く、昏く、病室を染め上げている。室内灯は切ってあり、影も、陰も、皆黒く塗り潰されるのは、時間の問題だろう。
「どうするつもりです? これから」
 ややあって、真琴が静かに口を開いた。
「どうするも、こうするも……もう、他に、何も」
 終わった。全部。
 こよりにとっての、自分の価値も、役割も、何もかも。
 こよりの、こより達の目的である〈析眼〉を手に入れたことで、彼女らが晶にこだわる理由は無くなった。同時に、接点もまた、無くなったのだ。

 胸の奥が、締め付けらるように痛い。晶はぐっと胸元を掴み、体を縮める。

 紅から、蒼へ。
 夜の、始まりだ。

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