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屠殺のエグザ

第十章第八話:晶 と 靴

 不意に飛んできた晶の身体を、零奈はしっかり受け止める――つもりだったのだが、立ち上がりかけの不安定な姿勢が災いし、そのまま倒れてしまった。それでも晶をしっかり受けきったのは不幸中の幸いか。
「あきらく……」
 晶の顔を覗き込み、零奈は絶句する。苦痛に歪む顔、両の手で押さえられた右眼、指の間から、幾本もの筋を描いて落ちる、真紅。
「そん……な……」
 右眼を、やられた。その事実がゆっくりと、零奈の脳髄を冒していく。
 晶が悲鳴のひとつもあげないのは、あまりの痛みに声が出ないからか。この出血量では恐らく――右眼はもう、使えまい。
「わたしの……」
 わたしの、せいだ。
 今まで戦ったことも無いのに、戦える気でいて。
 いいところを見せようなんて、そんなことばっかり考えてて。
 本当は、こんなにも、なんにも、できないくせに。

――〈エグザ〉だから、徒人を守る。

 違う。
 守りたかったのは徒人じゃなくて、自分のプライドじゃなかったか。
 晶の右眼と比べたら、こんなにもちっぽけで、どうでもいい――。

――守らなきゃ。
 晶を。
 せめて、晶だけは。晶の命だけは。
 叔母もいる。近くで母も戦っているはず。いや、それ以外にも〈エグザ〉が何人もいるはずだ。その誰か、誰でもいい、誰かが来て――晶を助けてくれるまで、その時間を稼がなきゃ。
 今度は、私が守るんだ。

 晶の頭を胸に抱き、零奈はキッと〈浸透者〉を睨みつける。自分の優位を悟っているのか、〈浸透者〉は悠然とこちらに近付いてきていた。分かっている、私は子供だ、私が睨んだって、怯んだりするはずない。
 残された時間は少ない。晶を連れて逃げるのは不可能だろうし、手許に武器があるわけじゃない。だけどせめて、晶だけでも、守りきらなければ――。
 零奈は素早く、周囲に視線を巡らせた。自分に出来ることは限られている。その中で、最善を尽くすんだ。
 とうに間合いに入っている〈浸透者〉。いつ攻撃されてもおかしくない。今襲われたら晶を――守りきれない。
(そんなのは……いや)
  零奈は履いていた靴を片方脱ぎ、その靴を〈浸透者〉目掛けて力いっぱい投げた。他に武器らしい武器など持たない零奈の反撃は、しかし呆気無く〈浸透者〉の 腕の一薙ぎで払われる。零奈の靴は空高く跳ね上げられ、やがてぽとり、と小さな音を立て、〈浸透者〉の遥か後方へ落ちた。
 〈浸透者〉は、終わりか、とでも問うように、小さく首を傾げて見せる。絶望を越えて腹立たしささえ覚えそうなほどの余裕だ。
「いまのわたしにできるのは、これだけ……」
 〈エグザ〉として教わってきた、たくさんのこと。
 戦い方や、力の使い方、そして――やってはいけないこと。
 禁を犯すのは、〈エグザ〉としてやっていいことじゃない。だけど。
「りっぱな、〈エグザ〉じゃなくていい。なれなくてもいいから……だから……」
 今は晶を守りたい。
 自分のせいで傷付いた、自分の愚かさが傷付けた、この少年を。
 もうこれ以上、傷付けたくないのだ。
「だから、わたしは――っ!」
 睨むのは彼方、地に落ちた自身の靴。物体の本質を見抜く〈析眼〉は、余すことなくその情報を網膜に映す。その質量は僅か三百グラム程度、理想値には程遠い――が、それでも構わない。
 落ち着け。落ち着いてやれば、失敗しない。いや、失敗するわけには、いかないのだ。
 視界に収めた靴を、この空間におけるオブジェクトとして認識。プロパティの遠隔書き換え権限は現在保有中。オブジェクトのIDを、今〈換手〉で触れているもう一つのオブジェクト――晶の身体と、書き換える。
 空間という名のデータベースにアクセスしたことで、〈換手〉が白く発光し始めた。〈エグザ〉が行使する特殊能力――〈対置〉の発現。眩いその閃光に、〈浸透者〉が後退りする。

 〈対置〉を行う際に発生する空間の歪みを最小限に抑えるために、〈対置〉する物体同士は出来るだけ質量が同じである方が望ましい。

 そんなこと、わかってる。
 三百グラム程度の靴と二十キログラムを超える晶の身体じゃ、まったく釣り合っていないのも知ってる。
 だけど、それがどうしたっていうんだ。

 これが今、私に出来るせいいっぱいなんだから。

「おねがい……〈たいち〉――っ!」
 零奈の、全力の叫びを飲み込むかのように、白光が辺りを包む。それは〈浸透者〉をも巻き込んで、夜の街を塗りつぶした。

 光が収まり、零奈は恐る恐る眼を開ける。胸にあった感触は無い。代わりに、膝の上に靴が片方、乗っていた。
「あきらくん!」
 遠方、靴の着地点に視線を動かす。そこには晶が倒れていた。
「あ……」
 成功、したんだ。
 安堵の嘆息も刹那、零奈は〈浸透者〉の動向に注意を向ける。突然の白光に面食らったのか、〈浸透者〉は警戒するように腰を落とし、零奈へにじり寄ってきていた。晶が消えたことに気付いているのかいないのか――ともかく、今〈浸透者〉は晶に注意を払っていない。
 よかった、少しは時間が稼げたんだ。
 〈浸透者〉が晶を殺すまでの時間。それは、――〈浸透者〉が零奈を殺し、晶を見つけ、移動し間合いに入れるまでの時間だ。それまでに、誰かが晶を助けてくれることを祈るしかない。
(それまで、たえるんだ)
 ゆっくりと、立ち上がる。
 姿勢は低く、いつでも、どちらへでも回避行動が可能な構えを――これは、訓練で学んだ。
 カッコ悪くてもいい、自分に出来ることを、出来る範囲で、出来る限りやり抜く強さ――それは、晶から学んだ。

 さあ、私を見ろ、〈浸透者〉。

「ごめんなさい、あきらくん」
 零奈が、呟く。
「もっと、いろいろ、おはなし、したかった。あそんだり、したかった。けんかしたり、……けが、させたり、じゃ、なくて……」
 〈浸透者〉が、牽制するように二度三度、腕をしならせた。〈浸透者〉の最大速度での攻撃は、〈析眼〉をもってしても実戦経験の浅い零奈には回避が難しい。
「もう、できないけど、でも」
 それは、零奈自身がよく分かっている。それでも――。
「わたしは、〈えぐざ〉だから」
――逃げるわけには、いかないんだ。
「だから、わたしは……やる!」

 〈エグザ〉だから守るんじゃなくて、
 守りたいから、〈エグザ〉としての力を使う。

 これが、わたしに、できること。

「ぜんりょくで、こい! 〈しんとうしゃ〉!」
 零奈が、吼える。
 〈浸透者〉の一閃が、振るわれた。

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