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屠殺のエグザ

第九章第六話:逃避 と 闘志

 遠く地響きを聞きながら、ラーニンはゆっくりと眼を開けた。〈析眼〉の領域を超えた感覚、これは、〈執行者〉としての経験がもたらした第六感に近い認識力。たった今、それが告げた。
――〈浸透者〉が、変質したか。
 ならば、彼らに為す術は無いはずである。最強の〈エグザ殺し〉である倉科こより、〈変成〉持ちの〈析眼〉を有し使いこなす村雨晶。それだけでなく、あの荻原真琴という少女は――。
 静かに頭を振り、ラーニンは自分の思考を修正する。今は、もっと大切なことがあるのだ。
 とにかく、強力な〈エグザ〉が三人も揃って挑んだ〈浸透者〉、この状況は、〈対置〉を試みた結果の産物であると考えていいだろう。だとすれば、もはや選択肢は二つしかない。

 〈浸透者〉を放置し、より多くの犠牲者を生むか、
 〈浸透者〉を殺し、より多くの〈浸透者〉を呼び込むか。

――さて、彼女に……彼女たちに、選べるかな?
 ラーニンは、まだ痛む身体を動かし、右手で近くの地面を探る。程なく、その指は己が〈神器・断罪剣〉に到達した。
――どちらを選んでも「悪」だ。「正義」に生きようと足掻く悪人は、どちらを選ぶ?
 〈神器〉で身体を支え、起こす。先刻受けたダメージは、まだ癒えていない。額を流れる汗が、頬を通り、顎から滴り、地に吸い込まれていく。
――愚問だな。悪人は、悪しか選べはしない……絶対に。
 自分は、行くべきだ。
 そして、見届けるべきだ。
 悪が悪しき選択を行った、その先を。

 とりあえず地面に固定していれば大丈夫、という認識自体が甘かった。そのことを、晶は痛感する。まさか、地に埋まった自分の身体を切り離すとは思わなかった。もはやこの世界の理から外れているとしか思えない身軽さで、〈浸透者〉は飛んだり跳ねたりといった曲芸を見せてくれている。
 正面から繰り出される、無数に生えた腕の内の一本。それを回避した先の着地点、足が地に接すると同時に、晶は身を捻る。着衣を掠めて、背後からもう一本の腕が通過し た。〈析眼〉によって物体の本質を見抜き、それにより常人には不可能なレベルでの回避運動も可能にする〈エグザ〉の弱点は、視界外の現象にある。背後から襲われれば、〈析眼〉による運動予測は得られない。この〈浸透者〉は、そのことを熟知している。
――次、右斜め後ろから……ここっ!
 晶の〈析眼〉は、視界に入っている腕全ての筋肉の動きを読み取り、自分の背後から来る腕の運動予測を行っている。〈変成〉持ちという特別性があればこその精密な予測だが、恐らく、普通の〈析眼〉では無理だろう。こよりも真琴も、未だ一度も攻撃を受けていないのは、奇跡と言うより他無い。とはいえ、このままでは状況は悪化するばかりだ。
 回避の合間を縫い、晶は周囲に眼を配る。こよりも真琴も、全く余裕は無さそうだ。わずかなりともやれそうなのは……自分だけか。
 無数の腕の間を潜り抜け、一際大きな瓦礫の前に立つ。〈浸透者〉は、瓦礫を挟んで向こう側。晶の背を僅かに超えるほどの大きさを持つこの瓦礫の後ろならば、〈浸透者〉から晶の姿は見えない。その効果は一瞬の時間を得ることだけだが、それで十分だ。
――イメージしろ。
 〈析眼〉を通して伝えられる瓦礫の情報。組成を無数のセグメントに分割、それぞれの継ぎ目を自壊しない程度に脆く設定。それぞれのセグメントに同一方向の運動エネルギーを与え、そのベクトルを一定幅のランダム値で修正。
――俺が生み出すのは、無数の……礫だ!
「〈変成〉!」
 晶は叫び、瓦礫は無数の破片となって一斉に〈浸透者〉へと襲い掛かった。

「正直、助かったよ」
 こよりが、軽い口調とは裏腹の強張った表情で言った。晶はあの礫を一時撤退のための眼くらましとして使い、逃げる時間を稼いだのだ。まだ崩れていないビルの陰に潜んでいるが、〈浸透者〉からそれほど離れられたわけではない。今頃敵は、自分たちを探していることだろう。
「……これから、どうしますか?」
 ぽつりと、真琴が呟いた。残る二人の顔が曇る。
 戦ったとしても勝ち目は無い。それは、先ほどの交戦で十分理解した。仮に足を止められたとしても、返依せないことは実証済み。ならば殺すか、逃げるか。
「もしもここで逃げたら……」
「もっと沢山の人が死ぬわ。……誰も、どうしようも、ないもの」
 そうだ、逃げても解決しない。しかし。
「倒してしまうのはダメなんだよな?」
「はい。〈此の面〉に〈彼の面〉の質量が残ることで、二つの世界のバランスが崩れ、空間が破れます。もしそうなれば、そこから無数の〈浸透者〉が現れることになりますよ」
 真琴が、もう一度、同じことを説明した。
「じゃあ、あいつを倒してから俺が〈変成〉して、出来るだけ質量を小さくしたら……」
 しかし真琴は、残念そうに首を振る。
「確かに影響は小さくなりますが、それでは〈彼の面〉が『失った』質量を補うことは出来ません。――本当のところ、いくら〈此の面〉が有する質量が増えたとしても、〈彼の面〉が持つ質量も同じだけ増えれば、全く影響は無いんです。問題は、二つの世界の質量差にあるんですから」
 いくら〈変成〉持ちでも、〈彼の面〉の物質へはアクセス出来ない。つまり、〈此の面〉だけでどうにかしろ、ということか。
「そもそも、殺すと言っても楽じゃないわよ。私も真琴ちゃんも、避けるだけで精一杯だもの」
 そうなのだ。仮に〈エグザキラー〉で〈浸透者〉の回復能力を封じたとしても、致命傷を与えるのは決して簡単ではない。そもそも、相手の懐まで入り込むほどの余裕など皆無なのだ。
「……なら、零奈先輩は? あの人の〈神器〉は、弓なんだろ?」
 晶が遠慮がちに出した零奈の名に、しかしこよりは気にした様子も無く答える。
「あの腕の隙間を狙って一撃で急所に当てるなんて芸当、いくら〈アトラーバオ〉でも奇跡が起きない限り無理ね。他を当たるにしても、弓型〈神器〉の製作者なんて瑞希=ラングバートくらいしかいないし、所有者も限られてるわ」
「〈一矢三破弓〉にしても〈リターニングアロゥ〉にしても、この状況で真価を発揮する〈神器〉とは言えませんしねぇ」
 真琴が言った聞きなれない単語は、恐らく別の弓型〈神器〉の名称なのだろう。接近出来ないなら遠距離で……と思ったが、これではそちら方面も期待出来そうに無い。
「……何とかして、私が倒すしかないみたいね」
 こよりの呟きを拾い、真琴が慌てて声を上げる。
「ま、待ってください、こより先輩! いくらこの状況でも、〈浸透者〉を倒してしまったら……先輩は、〈浸透者〉を意図的に大量発生させた大罪人になってしまいます!」
 これ以上、罪を背負うつもりですか、と真琴は続けた。
「現れる〈浸透者〉は全部私が返依すよ。それが私の……責任だもの」
 晶に真琴、二人は声を失いただそれを凝視する。こよりは、手の中の剣を〈エグザキラー〉に〈対置〉した。もう、逃げられない。逃げるわけには、いかない。
 そうでしょ、とこよりは空に問いかける。
「あなたは、“私が生んでしまった〈浸透者〉”だもの」
 こよりが睨み付けた正面、道路を挟んだ向かいにある雑居ビルの屋上に、〈浸透者〉が立っている。
「だから、私が、倒すの」

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