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屠殺のエグザ

第五章第五話:恐怖 と 鮮血

 立ち並ぶマンションの谷間に、そいつはいた。
 蒼い夜にもはっきりと輪郭を映す、漆黒の巨体。その元まで辿り着けば見上げるほどの大きさであるそれが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
 等間隔に設置された街灯の下に、それが来たとき。

 橋の上で遭遇した、あの奇異な形が露わになった。

 世界の裏側〈彼の面〉から染み出してきた存在。決してこの世界〈此の面〉には相容れない存在。物体を入れ換える能力を持つ者たち〈エグザ〉が〈浸透者〉と呼ぶそれは、確実にこの世界に馴染み、この世界に影響を与え得るまでに表出しようとしていた。
 晶はごくりと唾を飲み込むと、前に立つこよりを見遣る。こよりの表情は、いつもと――今まで幾度も見てきた、〈浸透者〉と戦うときと、何ら変わりない。敵の大きさも、そして自分が今負っている怪我すらも、彼女にとっては関係が無いかのようだ。
 こよりは〈浸透者〉に向き合ったまま、首だけを僅かに右へ向けて一度、小さく頷いた。晶は何も言わず、ただ一歩、後ろへ下がる。〈浸透者〉もまた、ここでこよりと戦うつもりなのだろう。体を落とし、威嚇するように低く構えた。
 ゆっくりと。
 こよりが、右手の剣を持ち上げ、構える。ちりちりと肌を焼くような緊張が、後ろで見ている晶にも痛いほど伝わってきた。きっと傍目には時間が止まっているように見えただろう。
 しかし晶の眼は、微弱に、しかし目まぐるしく動く彼女たちの筋肉の、「動き」より「気配」という表現がより似合うであろう互いの牽制を映していた。
 こよりが、剣を持ち直す。それを合図に、こよりと〈浸透者〉は互いに地を蹴った。こよりは軽やかに、〈浸透者〉は放たれた砲丸のように、互いが互いへと疾駆する。
  互いが五メートルくらいまで接近したとき、〈浸透者〉が四本ある角の内の一本を、こよりに向けて射出した。真っ直ぐこよりの心臓向けて穿たれる凶器を、し かしこよりは空中へ逃げることで回避した。綺麗に宙で回転するこよりに向けて、第二、第三の追撃を〈浸透者〉は撃ち込む。
(上手い……!)
  こよりは宙に逃げながらも、常に〈浸透者〉を視界に捉え続けるように、頭を中心にして回転していた。逃げ場の無い空中にあって、しかしこよりは焦ることな く、撃ち込まれた角の一本は剣で弾き、もう一本を足場に、空中でさらに加速し、〈浸透者〉の背後に着地した。当然、〈浸透者〉から眼を離さないよう、体を 捻っている。
 こよりは着地と同時に踏み込み、右手の剣で〈浸透者〉を薙ぐ。風切音を残して、しかし剣は空を斬った。
「離れろ、角が来る!」
 晶が叫び、こよりが大きく後ろへ退く。三本の角が一斉にこより目掛けて飛来し、辛うじてこよりの顔の直前で停止した。逆立ちするような形でこよりの斬撃を避けていた〈浸透者〉が、後ろ足を下ろしながらこよりに向き直る。
(ちっ……あいつ、マジで角の使い方上手いな)
 〈浸透者〉は撃った角を勢いよく引き戻し、途中で鎖をロックしたらしい。その状態でこよりの剣を避け、同時に頭の位置をずらすことで、慣性で飛び続ける角を背後のこよりに当てようとしたのだ。
 両者は一瞬停止し、しかしすぐに〈浸透者〉が動く。四本の角を、一斉に、四方からこよりを襲うように射出した。こよりはそれを、逆に前進することで回避する。
「真ん中が、ガラ空き……っ!」
 こよりは右手を引き、剣先を〈浸透者〉の顔に向ける。そのまま突き込もうと、踏み込んだ時――
 こよりの意志に反し、体が〈浸透者〉へと急加速した。
 〈浸透者〉の顔から出ている、角へと繋がっている四本の鎖が、こよりと同じ速さで引き込まれている。
 そして、こよりは何も出来ないまま、〈浸透者〉の顔に縛り付けられてしまった。
「大丈夫か、おい!」
 こよりの背中、その中央では、四本の角が、互いの鎖に絡まりあっていた。〈浸透者〉は初めから、こよりを懐に誘い込み、その鎖で絡め取るのが目的だったらしい。
 ぎしり、と嫌な音を立てて、鎖が引き絞られる。
「う……っあああああっ!」
 骨が軋む。肺が潰れる。肉が捻じれる。
 それら全てを糧としたこよりの絶叫が、深夜の街に響き渡った。

――俺は、何をしている。

 鎖はちょうど、こよりの右腕に絡むようにして回されていた。剣を軽く振っただけで、あのこよりが顔をしかめるほどに痛めていた、あの右腕に。

――これでいいのか、俺は。

 ロングコートの袖は、怪我をした場所を見せないが、しかし右手は青く変色していた。

――あいつは、俺を守るのが仕事で、〈浸透者〉を返依すのが仕事で……。

 耐え切れなくなったのか、こよりの手から、剣がこぼれ落ちる。細身の剣は、澄んだ金属音を響かせながら、アスファルトを転がった。

――俺には、何も……。

 〈浸透者〉は大きく首を振り、最早抵抗らしき抵抗も見せなくなったこよりを、マンションの壁に叩きつけた。

――出来ないから……っ!

 ずるりと、壁を伝うように地面に崩れ落ちるこより。ぴくりとも動かないそれを一瞥して、〈浸透者〉はこよりに背を向けた。
 もう、興味など無いと言うように。

 晶はこよりに駆け寄ろうとして、ふとそれが眼に入った。
 マンションの前の道路、その向こう側に設けられた公園から出てきた、夫婦と思われる一組の若い男女。それが、〈浸透者〉を見上げて、怯えたように顔を歪ませている。
 そう、〈浸透者〉を見て。
「表出したのか、完全に!」
 〈浸透者〉の前足が、ゆっくりと持ち上げられる。恐怖のせいか、立ちすくんだまま動けないでいる若い夫婦。
――くそっ……俺も、動けない……。
 ほら、戦えない。自分は、戦うなんて出来ない。まして、こよりがいないのに。こよりが戦えないのに。自分ひとりでなんて、何も出来ない。誰かを守るなんて、出来るはずがない。

 上まで持ち上げられた〈浸透者〉の前足が、

 高速で、振り下ろされる。

 同時に、若い夫婦は公園の方へ突き飛ばされた。夫婦は、しかし慌てて起き上がる。
(怪我を……してない……?)
 晶は、夫婦が立っていた公園の出入り口――〈浸透者〉の足元に、眼を遣る。

 そこには、桜色のロングコートを鮮血で染めた、こよりが倒れていた。

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