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屠殺のエグザ

第五章第二話:裏 と 表

 〈浸透者〉が表出するってどういうことなのか、と晶が問うたのは、その日の昼休みだった。
 もはや恒例となった屋上での昼食、二人は向かい合わ せでコンビニ袋をまさぐる。晶は弁当まで用意するつもりは無いし、こよりはまるで料理など出来ない。いや、覚える気が無い、の間違いか。要するに、二人と も弁当など持ってこないのだ。少々侘しい食事ではあるが、よく晴れた春の日差しと、遮るものも無く吹き過ぎていく風は心地良く、少しくらいの侘しさなど差 し引いても余りあるくらいには、贅沢な気分になれる。
 だが、それも。
 朝の一件のお陰で、楽しんでいる余裕など、少なくとも晶には無い。
「そうだね、説明しとこうか」
 こよりは、紙パックのカフェ・オ・レにストローを差し込むと、その先端に口を付けた。
「〈此の面〉がこちらの世界、〈彼の面〉が向こうの世界、っていう説明をしたと思うけど、この二つの世界は常に隣り合わせ、裏表の関係にあって、互いに影響しあってる」
 喩えるならトランポリンかな、と呟きながら、こよりの手はクリームパンへ。
「私たちはトランポリンの上に立ってるけど、〈彼の面〉はトランポリンの裏側に存在してるの。そして、世界はこのトランポリンの裏表に、同じだけの質量が存在することで、安定を得てる」
「つまり、表側の方が重かったら、裏側が大きく……っと、裏側から見たら、出っ張ってくる……みたいな感じか?」
「そうそう、で、その状態は不安定。トランポリンが平らな状態が、空間が安定してる状態ね」
 解るような、解らないような。晶は、難しい顔で聞いている。
「本来、裏側にいる人は表側には行けない。間に、トランポリンの膜があるわけだからね。だけど、何かの拍子に表側に出てきちゃうことがある」
 それが、〈浸透者〉。〈彼の面〉の存在が、〈此の面〉に染み出してきたもの。
「〈彼 の面〉には〈彼の面〉のルールがあって、〈此の面〉には〈此の面〉のルールがある。えっと……そうだなぁ、英語には英語の、日本語には日本語の文法がある でしょ? 英語で書かれた文章が、いきなり日本語の世界に飛び込んできたって、誰も理解出来ない。それはもう、『文章』じゃなくなっちゃうわけ」
 つまりはそれが、〈浸透者〉が異形である理由になる。そして、あるいは〈浸透者〉が〈此の面〉の存在に影響を与えられないのも、それが理由だろう。
「だけど、長い間〈此の面〉に留まり続けると、段々と〈此の面〉のルールに合っていくようになる。もちろん、根本のルールが違うんだから、元の姿に戻ったりはしないよ。でも――」
「〈此の面〉にある存在として、〈此の面〉に影響を与えるようにはなる……ってことか」
「そう、それが〈浸透者〉の表出」
 英語は形を変えないが、英語が日本語に影響を与えることはある。あの公園で起きた事件は、もう間もなく完全に表出する〈浸透者〉の仕業、ということか。
「――なら、放っておけないな」
 あんな事件が、そう度々起こってもらっても困る。
 しかしまた、厄介なことに巻き込まれたものだ。晶は思わず、天を仰いだ。頭上の太陽は明るいのだが、それと今の状況のギャップが大きすぎて、酷く憂鬱な気分になる。
「ま、〈浸透者〉は何でも、放っておくわけにはいかないんだけどね」
 こよりはそんな晶の様子を気に留めるでもなく、二つ目のパンに手を伸ばした。
「放っておけば、いずれ表出するからか?」
 晶もまた、ため息と共におにぎりの封を開け始める。
「それもあるけど。さっきも言ったように、〈此の面〉と〈彼の面〉は、互いに同じだけの質量が存在することで安定してる。だけど、〈浸透者〉が現れると、それはつまり、〈此の面〉に存在する質量が増えて、〈彼の面〉に存在する質量が減るってことだから」
「なるほどな、空間が不安定になるってことか」
「うん。私たち〈エグザ〉は、空間を安定させるために、〈浸透者〉を返依(<かえ)すのが役目なの」
 だからねぇ、とこよりは、パックの飲み物を一気に啜った。
「色々と大変なのよ。能力の発動にも、結構制限があるし」
「そうなのか?」
「もちろん。たとえば、〈対置〉する物体同士は、出来るだけ同じくらいの質量が望ましい、ってされてるしね」
 不思議そうな顔をした晶に、こよりは続けて理由を説明する。
「もし自動車と砂粒を〈対置〉したら、どうなると思う? いきなり大きな質量を失った空間は、反動で大きく波打つでしょ? もう、これ以上無いって言うほど、見事に空間を不安定にさせちゃうからね。それじゃ本末転倒でしょ」
「ああ、そういうことか」
「〈変成〉の発動条件みたいに、〈対置〉にも発動条件があるしね。交換物には手を触れていなくちゃいけないとか、被交換物が視界に入ってなくちゃいけないとか――」
「ん? ちょっと待てよ。お前よく、どこからか剣を〈対置〉してるだろ?」
 あれは視界に入る位置に剣があったわけではない。
「あ れは特殊。視界に入れなきゃいけない理由は、『本質を把握するため』だからね。私たち〈エグザ〉は、それぞれ『常に本質を把握出来る空間』を持ってる。 〈絶対領域〉って呼ばれてるんだけどね。そこに置いてある物体に限っては、視界に入ってなくても〈対置〉出来る。本質は把握してるわけだからね」
「へえ……」
 相槌を打ちながらも、今ひとつ晶には実感が湧かなかった。制限があるとはいえ、今までの戦闘を見る限り、それがネックになったことなど一度も無い。いや、あるいは、〈エグザ〉同士の戦いならば別なのか。
「ま、それはいいとして。あの公園に出たっていうのが〈浸透者〉なら、それはもう完全に表出する直前か……もしかしたら、既に表出してるかもしれない。私には見えなかったけど、君が見たところ、あの公園には僅かに空間の歪みが残ってた。そうでしょ?」
  ああ、と頷いて、晶は真顔になった。こよりは何の痕跡も発見出来なかったが、晶が念のために〈析眼〉で見てみると、ほんの少しではあるが空間が歪んでい た。人が襲われたのが昨夜なら結構な時間が経っていたことになるが、〈変成〉持ちという特別な晶の〈析眼〉は、普通では見えないような痕跡も読み取ったの だ。
「〈浸透者〉がいるところには、必ず空間の歪みが発生する。だから夜を待って、その痕跡を探し、追いかければ、必ず〈浸透者〉は見つかるわ」
 こよりは、食べ終えたパンの袋をくしゃりと丸めると、元々それが収まっていたコンビニ袋に押し込んだ。今日の昼食は、これで終わりだ。
「けど、何で夜じゃないと駄目なんだ? まさか昼間は学校があるから、なんて言うつもりじゃないだろうな」
「あら、君って学校嫌いなタイプ?」
 こよりが横眼でこちらを見ながら、良く言えば悪戯っぽい、悪く言えば大変不快な笑顔で問い返す。
「そうじゃない。でも、表出した〈浸透者〉が人を襲いだしたり、〈此の面〉と〈彼の面〉のバランスが崩れたりすることを考えたら、学校なんて優先順位低くないか?」
 晶は、ある程度慣れたとはいえ、その顔が嫌で、ややぶっきらぼうに答えた。本当に、こよりの性格は気に食わない。
「昼間は人とか物とか、沢山の物が動いてるからね。空間もそれに応じて流動するから、痕跡が消えやすいんだ。夜ならその点、長時間痕跡が残る。適当に街を走り回って遭遇する確率なんてゼロに等しいからね。確実な方法を採った方がいいってこと」
 それよりも、とこよりは、晶に顔をぐいっと近づけた。
「君、もちろん一緒に来てくれるよね? 大変だよー? 世界の危機だよー? それがなくても、街の人たちの命が危険に晒されてるんだよー? 助けたいよねー? 力になりたいよねー?」
「って、あんたが戦えばいいだろうが。何度も言うように、俺は戦う気なんて無いし、それがあんたの仕事だろ」
「でも、君の眼は戦力になる」
 こよりは、相変わらずの嫌な笑みで――しかし声音は真剣に変わっていた。
「戦わなくてもいいよ。私が戦うから。だけど少しだけ、私の力になって欲しい」
 短い付き合いの中、それでもこよりが大真面目であることを察した晶は、渋々頷いた。

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