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屠殺のエグザ

第五章第三話:河川 と 背中

 すっかり日は暮れていた。まだ辛うじて電車は走っているだろうが、それもあと数刻の内に無くなる。晶は、準備を整えて家を出た。準備と言っても、戦闘を するわけではないので、簡単なものだ。動きやすいように少し緩めの服装で、汚れるかもしれないので、穴が開いたり染みが出来たりしているものを選んであ る。靴も――以前の戦いで、学校指定の革靴は大変動きづらいことが判っていたので、履き慣れたスニーカーだ。武器は持っていく必要など無い。
「おっせーな、あいつ」
  深夜の住宅街は、深閑としていた。遠くを走る幹線道路から、時折エンジンの音が響いてくるだけだ。その中で呟いた晶の言葉は、きっと昼間ならば自分の耳に も届くか怪しいくらいの小ささだっただろうが、今は隣の家までくらいなら聞こえているんじゃないだろうか、というほどに広がり、晶は慌てて口を噤んだ。
  あいつ、とは、言うまでも無く倉科こよりのことである。早々に準備を終えた晶とは対照的に、こよりの準備は随分と時間が掛かっていた。もうすぐ終わるから 先に出ていてくれ、というこよりの言葉に従って外に出たものの、いつまで経っても出てくる気配が無い。置いていこうか、とも一瞬考えたが、こよりはこの家 の鍵を持っていない。さすがに、こんな夜中に施錠もせず出歩くのは気が引けた。
 春、ゴールデンウィークも過ぎたこの時期、昼間は汗ばむほど暖かい日もあるが、夜の空気はそんな緩みきった体を引き締めるかのように、冷たかった。何より、動かずにただ待っているだけなので、余計に寒い。
 いい加減せっつこうかと考え始めたとき、ようやく玄関の扉が開いた。
「遅いぞお前、いつまで……」
 口を出かけた詰りの言葉は、最後まで紡がれること無く飲み込まれた。
「お待たせ、行こうか」
 玄関口に立ったこよりは、初めて会ったあの夜の格好をしていた。いつもは二つの房に分けた後ろ髪を、後頭部左斜めの位置で一つに纏めている。濃い桃色のタイトスカートに、黒い革の質感の、膝上まで丈のあるロングブーツを履き、桜色のロングコートを羽織っていた。
 何もかも、あの夜のままに。
「お前、その格好……」
「似合う?」
 こよりは笑い、その場でくるりと一回転する。コートから出ている、二本の環状のベルトと、結わえられた長い栗毛が、その動きに遅れてこよりを中心に円を描いた。
「いつもは、この服装なんだよ。〈エグザ〉として活動するときは、ね」
 数日前出会ったこより。自分が何に巻き込まれているのかも解らずに、ただただ迫り来る死の恐怖に、心が冷えた夜。あの日のこよりが、ここにいる。
 眼を閉じ、深呼吸をひとつ。
――大丈夫、俺は、あの日のままじゃない。
 〈浸透者〉に襲われるのはやっぱり嫌だけど、でも。

 あの時みたいに、怖くはない。

 あの夜には知らなかったこよりを、今は知っている。
 今はこよりが守ってくれる、助けてくれる。
 変な奴だけど、嫌な性格だけど、でもそれだけは信じられる。

「――行こうぜ、〈浸透者〉を探すんだろ?」
 眼を開ける。前髪を上げる。晶は右眼、〈変成〉持ちの〈析眼〉で、世界を視る。
「うん、行こっか」
 互いに微笑を交し合い、二人は駆け出した。
 どこかで〈浸透者〉の待つ、夜の街へ。

 自宅近くの幹線道路へ一度出て、それに沿って東へ。
 晶の〈析眼〉は、こよりですら見えない空間の歪み――ほんの僅かに残された痕跡を捉え、〈浸透者〉の軌跡を明確に示していく。
 昼間は通過するだけでも困難な交差点も、今は容易く駆け抜けることが出来た。この周囲はオフィス街で、昼間は会社員で賑わうが、夜はゴーストタウンと化す。
 その区画を駆け抜け、私鉄の駅とその高架を潜り、尚も東へ突き進む。ここまで〈浸透者〉は、一直線に進んでいた。周囲に混乱が見られないということは、今は表出していないということか。しかし、昨夜は表出していたのだから、ゆっくりとはしていられない。
「見えた、三十分前だね」
 駅前の商店街を抜ける頃には、こよりにも痕跡が見えるようになっていた。晶と違い、経験から〈浸透者〉がこの場を去ってからどれくらいの時間が経っているのかが、こよりには判る。戦闘に備え、こよりがコートの中からいつもの折りたたみ式ロッドを抜き出した。
 このまま進むと、街を東西に分断する河川に至る。急な堤防を緩やかに登るために、道路は大きく湾曲していた。
 坂道を上りきり、目の前に橋が出現する。その橋の中央に、

 〈浸透者〉が、背中を向けて立っていた。

 目撃証言どおり、大きさは象くらいで、その巨大な体躯に相応しく、非常にゆっくりとしたペースで歩いている。やはりまだ完全に表出はしていないらしく、 たまたま橋を渡っていた自動車が、〈浸透者〉の体をすり抜けていた。だが時折点滅するように、僅かの間だけ表出しているところから見て、あまり猶予が無い のは確かなようだ。
 こよりは、ロッドを握り直した。
「行くよ。君は少し離れて付いてきて。自分の身の安全を第一にね」
 晶が頷いたのを確認すると、こよりはロッドを一振りし、叫ぶ。
「〈対置〉!」
  一瞬の発光と共に、ロッドは剣へと姿を変えていた。否、倉科こよりの〈絶対領域〉に保管されている剣と、彼女が手にしているロッドが入れ換えられたのだ。 物の本質を見る〈析眼〉と、物の本質を書き換える〈換手〉が生み出す、〈対置〉という能力。こよりは、その力でこの不可能を可能にしている。
 〈浸透者〉が察し、振り向いた時には、既にこよりは疾駆していた。橋の長さは五十メートル、〈浸透者〉までの距離は二十五メートル余り。その距離を、こよりは一瞬で十メートルほどにまで縮めていた。
 振り向いた〈浸透者〉には、頭が無かった。正確に言えば、胴体部分に顔が貼り付いているような体裁だ。その顔を中心に、上下左右の四方から、こよりの手首ほどの太さがある角が四本、生えている。
 こよりは体を沈めた。足のバネを最大限に利用して、残る距離を三歩で詰めにかかる。
 一歩目、沈み込んだ勢いを解放して、前へ。左で踏み込み、右で着地。
 二歩目、着地の右で踏み込み、勢いを殺さないように前へ。
 三歩目、再度左で踏み込めば、距離を詰めると同時に反撃に移れる……はずだった。
 〈浸透者〉は、しかし敏感な反応を見せ、二歩目の着地点に向けて、角の一本を射出する。角にはチェーンのようなものが繋がり、回収出来るようになっていた。〈浸透者〉の意図を先に読んだこよりは、着地点の手前で左足を着け、軌道を僅かに右へ逸らす。
(使ってない角はあと三本……どれも、使う気配は無い!)
  本質を見抜く〈析眼〉は、〈浸透者〉の筋肉の動きを、僅かたりとも見逃さない。こよりは、今が攻撃の好機であると確信し、着いた右足を蹴り、再度接近を試 みる。〈浸透者〉は、頭を一度、左に振っただけ。攻撃も防御も、仕掛けてくる様子は無い。敵は図体こそ大きいが、特別丈夫な皮膚を持っているわけではな く、初撃で十分、動きを止められる。
――勝った。
「駄目だ、行くな!」
 そう確信したこよりに、晶の叫び声と、
 脊髄を砕くような痛みが、投げられた。

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