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屠殺のエグザ

第十章第五話:晶 と 零奈

「……きました」
 零奈がぽつり、と呟いた。母と別れて数刻、薄いガラスが割れるような音を耳が捉える。幼い零奈が気付いたほどだ、叔母も当然気付いたのだろう。小さく頷くと、晶をテーブルに座らせて、静かに立ち上がった。すかさず腰を上げた零奈を、叔母の左手が制する。
「れいちゃんは、ここにいてね」
「わかりました。あきらくんを、まもります」
 真顔で答える零奈に笑みを返し、叔母はゆっくりとリビングの入口へと足を進めた。
「これは……ちょっと、まずいかもね」
 〈析眼〉を開いた叔母が呟いた。零奈もいつでも――戦うつもりで〈析眼〉を開き、周囲の様子を窺っていたが、さすがに〈変成〉持ちの〈析眼〉に敵いはしない。頑張ってはいるが、今の零奈にはほとんど状況を把握出来ていなかった。
「かこまれましたか」
「まだ大丈夫。でも……玄関は固められちゃったかな」
  視えないなら視えないなりに状況把握に努めた零奈に、叔母が答える。村雨家のリビングは玄関から真っ直ぐ、およそ五メートルほど先にあり、もしも屋内に 〈浸透者〉の侵入を許せば、こちらまで直行されることは眼に見えていた。零奈は後ろの――大きな窓を、振り返る。敵の影は、無い。
「ここを、でましょう」
「さすがれいちゃん、いい判断ね」
  幼い零奈の提案に、叔母は即答で賛成した。叔母の位置から、そして当然零奈の位置からも、裏口の状況は全く視えない。揃って裏口に移動して、もしもそこすら敵が固めていたら――最悪、玄関から進入した〈浸透者〉と挟み撃ちになる可能性がある。リビングの広さから考えて、この家の各部屋が室内戦闘に適しているとは考えづらかったし、ここでの戦闘の可能性は、出来る限り排除した方がいい。ならば、最も安全が確認されているリビングの窓は、脱出路として考えうる最良の選択だろう。
「外は〈浸透者〉がいっぱいいると思うけど、大丈夫かな?」
「ここにいるより、ずっと、いいです」
「そうね。おばさんも賛成」
 この問答自体に、恐らく意味は無い。行動を起こす前の、最終確認的な意味合いだろう。
 判断を下してからの行動は速い。叔母は外をうろついている〈浸透者〉を刺激しないように静かに窓を開け、顔を出して周囲を確認。零奈がその背中を守る。十分に安全が確認出来たら、次は零奈が外に出る。次に晶、叔母の順で、村雨家を脱出した。
 叔母が小声で、こっちに、と囁いた。村雨家と隣家を仕切る柵、その一部が折れて壊れている。
「ここから、お隣さんに。みんな寝てると思うから、大きな音を立てないようにね」
 この柵、晶が壊したの、と叔母は笑った。
 足音一つに気を遣い、窓から頭がのぞかないように姿勢を低くして、隣家の壁沿いを歩いていく。
「ここのひとたちは、だいじょうぶでしょうか」
「……そう、祈るしか……ないわね……」
  〈エグザ〉はおろか、〈浸透者〉の存在自体、公には秘密だ。いかに非常事態であろうとも――事を公にすることは、出来ない。幸い〈浸透者〉は、完全に表出しない限り一般人に被害を及ぼすことは無いが――それも今は、気休めでしかないか。何しろ晶が――徒人である晶が避難しなければならない状況なのだ。楽観的、希望的観測など、持てようものか。
 三人は隣家の、反対側の端へ到達する。眼の前にあるのは、コンクリートブロックで造られた頑丈そうな塀だ。叔母は、本当は良くないけど、と言いながら、掌をコンクリート塀に当てる。
「〈変成〉っ」
  ブロックの隙間に、何度か同じように〈変成〉を繰り返す。ほどなく作業を終えたのか、叔母がブロックの一つを押した。それはまるで発泡スチロールのように ――およそ重さを感じさせずに、向こう側へ抜け落ちる。いくつかのブロックを抜くと、零奈ならば苦もなく潜れる大きさの穴が出来上がった。
「さ、これで通れるわね」
  きっと叔母のことだ、後でこっそり修理しておくんだろうな、と考えながら、零奈が塀を潜ると、そこは大人一人がやっと通れるほどの狭い路地になっていた。 どうやらこの路地は、家々の裏を縫うように走っているようだ。なるほど、ここを通って〈浸透者〉の眼から逃れよう、というわけか。家からの早期脱出を提案した零奈だったが、ルートまでは考えていなかった。己の未熟さを痛感する。
「さ、行きましょ、れいちゃん」
 先に立つ叔母に、しかしそんな内心の悔しさなど顔に出さぬように心がけつつ、零奈はん、と頷いた。さすがにこの路地が危険区域外まで続いているとは思えないが、囲まれている状況さえ脱すれば何とかなる。広い場所なら逃げやすいし、戦闘にも適し〈協会〉の〈エグザ〉による援護も期待出来る。少なくともジリ貧という最悪の状況は避けられよう。
 しかし、この路地はどうにも歩きづらそうだ。〈析眼〉を開いているからこそ適切なルートが視えているが、もし〈析眼〉を閉じている時に歩いたら、蹴躓くわ引っ掛けるわ、まともに歩けないことだろう。この狭さにもかかわらず色んな物が無節操に放置されすぎだ。おまけに今は夜。街灯の光もここまでは届かず、ろくに見えやしない。さぞかし徒人である晶は大変だろう、と零奈は――憐れみ含みで彼を見て、そして気付いた。
(……どうして……)
  これだけの悪条件下で、晶はどこにも蹴躓くことなく、引っ掛けることもなく、迷うことなく路地を進んでいた。本当は〈析眼〉を持っているんじゃないか、と 疑うほどだったが、よく見れば動き自体は無駄な運動も多い。到底〈析眼〉を持っているとは思えない、まさしく徒人の動きだったのだが――それでは、一体な ぜ?
 零奈にとっては気に食わない。晶は徒人で、何も出来なくて、だから自分が守らなきゃいけないのに。

 晶と、自分は違うのに。

「あきらくん、だいじょうぶですか」
 いや、そんなはずはない。晶は徒人、自分は〈エグザ〉だ。物体の本質を視る眼〈析眼〉でもなお歩行困難なこの路地を不自由なく歩けるわけが無い。零奈の問いは、「望む答え」を求めるそれだった。しかし。
「……べつに」
 返って来た答えは、零奈の期待を裏切るものだった。違う、欲しい答えはそれじゃない。「こわい」という答えが、「たすけて」という言葉が欲しいのに。ぶっきらぼうな、そんな答えが欲しいわけじゃないのに。
「へんです。あきらくんは、〈えぐざ〉じゃないのでしょう。まっくらだから、こんなところ、あるけるわけ、ないです」
「……なんで?」
 二度目の返事に、零奈は返す言葉を失った。晶の口調は、ぶっきらぼうを超えて不機嫌になっている。何でも何も――そんなこと、零奈にとっては当たり前のことだった。
「だ、だって……わたしは、〈えぐざ〉です。あきらくんとは、ちがいます。わたしだって、ここをあるくのはむずかしいのに……」
 晶に、出来るはずが無い。そう言いかけて、しかしその言葉を晶が遮った。
「おまえにできなくても、おれにはできるもん」
 当たり前だ、と言わんばかりに。
 零奈など、必要ないとばかりに。
 こちらを見向きもしないで言い放つ晶に、零奈は苛立ちを抑えきれなかった。

 晶との間に気まずい空気を残したままで、路地を出た。相当歩いたつもりだったが、何のことは無い、一区画向こう側に出ただけの話だった。あんなに歩いたのに、と気分が萎えそうになる零奈だったが、晶が動じる様子が無いのを見て気持ちを奮い立たせる。徒人なんかに負けてたまるか。
「さ、囲みは抜けたけど、まだ危険区域内だからね。注意していこう」
 叔母がそう言って二人を諭す。ここを脱すれば、安全圏だ。

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