屠殺のエグザ
第二章第一話:日常 と 幻想
目が覚めたのは、ベッドの上だった。使い慣れた枕、見慣れた部屋。いつも通りの朝が、ここにある。
でも。
晶は上体を起こし、深く息を吐き出しながら、己が掌を見つめた。
昨夜の出来事は、とても日常からはかけ離れている。
見たことも無い異形、〈浸透者〉に襲われ、〈対置能力者(エグザ)〉だとかいう少女に助けられて、その少女は自分の目の前で、鞄と剣を入れ換えて――。
「いや……」
ゆっくりと、頭を振る。
今目の前にあるのは、見慣れた日常だ。目の前にある、確かなものだ。
記憶は風化する。どんな鮮烈なイメージも、――いや、鮮烈であるがために、信じ難いために。
あれは、あれは夢なのだと。
友人宅から帰宅し、疲れてそのまま眠ってしまい、見たものだと。
だってそうだろう? あんな非現実が現実であったなら、今ここにある日常は何だってんだ?
晶は自分に言い聞かせるように心で呟き、両手で軽く顔を叩くと、登校する準備を始めた。
いつものようにトースターにパンを放り込み、
いつものようにテレビを観ながらそれを齧り、
いつものように時間ギリギリに鞄を引っ掴み、
いつものように、仏壇の遺影に手を合わせた。
「いってきます……母さん」
◇
「聞いたぜー晶」
晶が席に着くなりそう言って寄ってきたのは、クラスメイトの衣谷と黒木だ。
「……何を?」
心当たりが無かったので、晶は怪訝な顔で二人を見上げる。
「昨日帰る時のさ、校門でやらかしたケンカ。絡んできた往生先輩たち五人をたった一人で返り討ち! なあお前、そんなケンカ強かったっけ?」
「あれ、往生っていうんだ。何か縁起でもない名前だな」
「知らなかったのかよ!」
黒木がどこからか取り出した英和辞典(彼のツッコミ道具である)が、晶の脳天にクリーンヒットする。ぐあっ、と呻いて、晶は頭を抱えつつ机に突っ伏した。
「おま……それだけは止めろと……」
「まあ晶だもんな。そういう有名な生徒の噂とか、全然知らねーんだから」
衣谷が呆れたようにぼやく。ご丁寧に、「ヤレヤレ」と両手を上げるジェスチャー付きだ。
「黒木! おま……ちっとお前謝れこの野郎!」
がばりと顔を上げた晶は涙眼だ。本気で痛かったらしい。
「何であのツッコミすらかわせないのに往生先輩プラスその他四人に勝てるんだか……」
「俺が知るかよ!」
「あ、見ろよ、一年の倉科こよりちゃん来たぜ」
「スルーすんな黒木!」
窓から校門の方を見下ろし歓声を上げた黒木に倣い、衣谷も窓際へと移動した。どうやら英和辞典攻撃の一件はこれで終了ということらしい。
「お、ホントだ。相変わらず今日もカワイイよなー、こよりちゃん」
「新入生の中ではダントツだよな。なぁ晶、お前的にはさ、こよりちゃんってどう?」
話を振られても、知らない話題では返しようが無い。晶は微妙にふて腐れた声で言った。
「誰だよその『こよりちゃん』って」
ああ、と二人は納得したような呆れたような、何とも言えない表情を同時に見せ、黒木はすぐに外へ視線を戻し、衣谷が解説してくれた。
「今 年の新入生、倉科こより。背はちょっと低い方だけど、顔がすっげーカワイイのと、キャラが……妹系? っていうの? あんな感じでさ、俺らだけじゃなく て、三年の先輩方にもファンは多いって話だぜ。ま、平たく言えば学校のアイドルってとこだな。三年には小篠零奈先輩っていう元祖アイドルもいるけど、今こ の学校じゃこの二人がツートップ」
熱心な説明には悪いが、晶は「へぇー」と気の無い返事である。
「っていうか、お前さ」
倉科こよりが校舎内に入ってしまったのだろう。黒木が体ごと、晶の方へ向き直った。
「女の子に興味って無いわけ? 健全ないち男子としてそれはどうよ?」
「もしかして晶、お前そっち系……」
「疲れるからバカ言うな」
晶は再び机に突っ伏した。どうにもこうにも、話題が疲れる方向へ流れている。
「興味無いわけないだろ。俺だって『可愛いなー』とか思ったりする」
「にしちゃ、こよりちゃんを知らないとか有り得ないんですけど?」
衣谷が微妙に疑いのこもった視線を投げている。
「俺は現実主義者なの。んな学校のアイドルみたいな娘が、俺らみたいなのを相手にしてくれると思うか? んなもんに熱上げてたって無駄だろ。そんな暇があったら、手が届きそうな娘にアタックするって」
「で、村雨晶的に、その現実主義に反しない程度に射程圏内のカワイイ娘は誰よ?」
興味津々、といった様子で顔を近づける二人。晶はざっと教室を眺めてから、言った。
「うーん、例えば、そこの白川恵さんとか?」
バッ、と二人は名の上がった少女へと顔を向け、
「お前、見た目に因らず守備範囲広いね」
「晶よ、男にも選ぶ権利はあると思うぞ」
それぞれ、似たり寄ったりのリアクションを返した。
◇
昼休みを告げるチャイムが鳴り響き、俄かに教室は活気付いた。食べることが学校生活唯一の楽しみ――という極端な生徒はそう数はいないだろうが、それでも大多数の生徒にとって心待ちにしている時間であることには違いない。晶もまた、その中の一人だ。
「メシ、メシ、晶」
黒木が言いながら寄ってくる。晶は毎度思うのだが、「晶、メシ」という順序が正しいのではないか? 自分の序列はメシより下か? と、この時間もまた微妙な気苦労が絶えない。
「おう、ちっと待ってくれ」
言いつつ、朝コンビニで買ったパンの入った袋を、鞄から取り出す。
「おーいお二人さん、早くいらっしゃいな」
「急かすな衣谷。今行くから」
言って、晶が腰を上げたときである。
「あ、いた。せんぱーい、ごはん一緒に食べましょー」
廊下の側、教室の出入り口から聞こえた声に顔を上げると、そこには。
昨夜出会った、〈エグザ〉の少女が立っていた。
「おま……な、何でここにっ!?」
自制する暇も無く、大声で返してしまった。一瞬にして教室は喧騒が消え失せ、クラスメイトたちの視線は晶と、〈エグザ〉の少女を行ったり来たりしている。
ダークグリーンのスカート、そしてブレザー。胸元にはタイ。紛うこと無きこの学校の制服を身に纏い、
〈エグザ〉の少女は、立っていた。