屠殺のエグザ
第五章第七話:血 と 家路
〈浸透者〉を倒す。
あるいは、小型種だったなら、さほど労せず遂げることが出来ただろう。
〈エグザ〉は〈浸透者〉を倒さない。
倒してしまっては、元来〈彼の面〉の存在である彼らが〈此の面〉に残り、この世界が有する質量を増やしてしまうからだ。
だから、〈エグザ〉は〈浸透者〉を、その能力〈対置〉を用いて、〈彼の面〉へと返依す。そうすることで、裏と表、二つの世界の質量バランスを保っているのだ。
村雨晶は、〈変成〉持ちの〈析眼〉を右眼に宿してはいるが、〈エグザ〉ではない。物体が持つプロパティを書き換える〈換手〉を持っていない彼は、物体の「位置情報」を書き換えられない。故に、〈対置〉を行えない。
だからこそ、彼にとってこの戦いは、〈浸透者〉を倒すことでしか、成し得ない事だった。
〈浸透者〉を倒す。
あるいは、小型種だったなら、彼にとっては容易な事だっただろう。
だが、敵は巨大過ぎた。
◇
咆哮が響く。
急所を刺された〈浸透者〉の、力任せな攻撃は止まない。
唯一の武器であったこよりの剣は、今もまだ、〈浸透者〉に突き立ったままだ。
(甘かった……か……?)
当たれば即死の攻撃に、冷や汗を額に滲ませながら必死の回避を続ける晶。急所さえ外さなければ倒せる、という読みは、大きく外れた。確かに、その体躯の大きさを考えれば、〈浸透者〉にとってみれば、こよりの剣など縫い針程度でしかないのだろう。
だが、それでも確実に、弱ってはいる。問題は相手の動きが鈍るまで、避け続けることが出来るかどうかだ。他に武器が無い状況では、追加の攻撃でさっさと沈めることも出来ない。
(〈析眼〉が開いてるし、回避そのものは問題無いけど――)
〈析眼〉で本質を見続けるというのは、想像以上に神経をすり減らす。膨大な量の情報が、視覚を軽く凌駕する密度で直接脳を占めていくのだ。ましてや、そこ から相手の行動予測を行い、然るべき運動を実行するというのは、第一線の〈エグザ〉ですら、長時間は続けられない。晶は、ついさっき〈析眼〉を初めて開い たばかりで、その状態での交戦経験など全く無いのだ。緊張の糸が切れてしまえば、〈析眼〉で情報を得ていようといまいと、関係無くなる。疲労は判断ミスを 生み、そのミスは自らの命を奪う。そして恐らく、その瞬間は遠くない。
〈浸透者〉が絶命するのが先か、
晶が踏み潰されるのが先か。
相対する両者、背後には、互いに死が待ち構えている。
小細工をしている余裕など無くなったのか、単純に距離が近すぎて使えないのか、〈浸透者〉は角による攻撃はしてこなくなっていた。代わりに、その巨体と体 重を利用した前足での踏みつけや体当たりなどが、攻撃の中心になっている。轟音と共に叩きつけられる左足、それが生み出す風圧に耐えながら、〈浸透者〉の 左側面へと回り込むように回避する。視線は〈浸透者〉から外さない。敵がそのまま、晶へ体当たりをし始めた時には、既にその巨体の下を潜り抜け、反対側に 出ていた。起き上がる、と同時に、今度は右足が払われた。ぎりぎり、視界の右端でそれを捉えていた晶は、〈浸透者〉の背面へと飛び込んだ。〈浸透者〉は右 足を払った勢いそのままに、一瞬で晶へと回頭する。晶が顔を上げた時、既に眼の前には〈浸透者〉の顔があった。
(マズ――っ!)
〈浸透者〉の頭突きを受け、晶が転倒する。起き上がろうと上体を起こした時には、〈浸透者〉は晶の真上で前足を構えていた。
――ああ、死ぬんだ、俺……。
何処か冷静な自分がいた。
――こんな所で、死ねるかよ!
諦めの悪い自分がいた。
――まだ、やりたいことあったのにな……。
未練を思う自分がいた。
――まだ、やらなきゃならない事があるんだよ!
未練を思う自分がいた。
――守るって決めた。
――守るって決めた。
――俺は、あいつを……。
でも。
俺は、死ぬんだ。
〈浸透者〉の足が、振り下ろされる。
「〈彼の……面〉の……者……よ……」
〈浸透者〉の動きが止まった。響いたのは、少女の声。夜の街に、小さく、しかし、凛と。
「お前の……在る……べき……場所……へ……」
あの日と同じ声。あの夜に聞いた、少女の宣告。
「返依れ……っ」
あの夜と同じように、そしてまた、そう誓ったように。
少女は再び、晶を救った。
◇
〈浸透者〉が消えた向こう側に、少女は立っていた。
桜色のコートは血に濡れて、青く変色した右手はだらりと力無い。
〈浸透者〉に触れていた左手は、まだ前へと伸ばされたままだ。そしてそのまま、動かない。眼は、焦点が定まっていなかった。
「お……まえ……」
呟きを漏らした晶へ、視線が動くことも無い。しかし、きっと声は聞こえたのだろう。少しだけ、本当に少しだけ、少女は口の端を持ち上げた。最後の力を振り絞り、笑みの形を作ろうとしているように。
体が、崩れた。晶は反射的に駆け寄り、抱き止める。
「おい、しっかりしろよ、おい!」
もう意識は無い。晶の〈析眼〉で見るまでもなく、軽傷で無いことは明らかだ。
「くそっ、俺、死なせないから。お前を、死なせないから……っ!」
晶は、少女を抱き上げた。病院になんて行けない。この怪我の説明なんて出来ないし、警察を呼ばれたら、きっと彼女が困る。だから。
「帰ろう、家に。大丈夫だから、俺が、助けるから」
晶は歩き始めた。
どうすればいいのかも、分からないままで。