朝露の約束
エピローグ 七年後、四月
朝。バスを降りた青年を出迎えたのは、満開の桜だった。空の柔らかな青によく映える薄紅は、時折吹く風に宙を舞い、渦を巻く。
「変わってないな、ここは」
青年は、眩しそうに目を細めた。高校へ上がる直前にこの町を離れ、以後ずっと戻る機会が無かったのだ。大学を卒業し、ようやくここへ戻ってこられた。今まで片時も、この町を忘れたことなど無い。
「お、いたいた。おーい!」
青年がその声に振り返ると、馴染みの顔が手を振って駆け寄ってきていた。
「兼人、それに茅も」
友人たちとの久しぶりの再会に、青年の顔が綻ぶ。電話やメールでずっと連絡は取っていたが、会うのはこの町を出て以来だ。
「久しぶりね。何か背も伸びちゃって……」
「あはは、高校に入ってから、いきなり伸びてさ」
茅が爪先立ちで青年の頭をポンポンと叩く。昔は茅の方が背が高かったのだが、しばらく会わない間に、逆転していたようだ。
「兼人、今は大路神社で世話になってるって?」
「っつーか、オレが世話してるっつーか。茅が相変わらずアレだからな。オレが手綱を持ってやらんと」
兼人が高校を卒業する頃、ようやくこの町に路線バスが開通した。その恩恵もあって、兼人は大学へ進学するのに町を出る必要が無くなった。とは言え、片道二時間程の通学は楽ではないと、よく電話で漏らしていたのが記憶に新しい。
「っつーかさ、そこそこ売れてるそうじゃんか、お前が書いた本」
「僕が書いたんじゃないよ。僕の研究発表の資料を元にして、担当さんが纏めたんだ」
「テレビにも出てたね、一回だけ」
「あ、茅あれ見てたの?」
つい先月の話だ。朝のワイドショーに一度だけ出演した。居並ぶ不慣れなカメラにすっかり怖気づき、もう二度と出てやるものかと思ったものだ。
「フィクションだとか、ファンタジーだとか言われてたでしょ。どうしてあの時、はっきりと『ノンフィクションです』って言わなかったのよ」
茅の言葉に同調して、兼人までもが相槌を打っている。青年は、遠い昔に思いを馳せるように、空を見上げた。
「どういう形であってもいいんだ。僕は、彼女が確かにいたってことを……彼女と過ごした一年が確かにあったんだってことを、もっとたくさんの人に知って欲しかっただけだから。それが現実であれ――創作であれ」
失われた民間伝承である〝悪魔伝説〟を、青年は大学で研究し続けた。資料らしい資料など残っていない状態でのそれは難を極めたが、茅の伯父、唐塚浩二の協力もあって何とか成し遂げることが出来た。
残念ながら大学での評価はあまり高くなかったが、今まで僅かな情報と憶測でしか語られなかった〝悪魔伝説〟のほぼ完全な形での論文は、民俗学ファンに強く支持された。
そして、青年にとって〝悪魔伝説〟を語る上で外せない存在――三十回も「一年間」を繰り返した、最後の〝悪魔〟――その少女と過ごした一年の記録が、知人の伝手で出版されるに至ったのだ。……表向きは、フィクションとして。
「ま、それはそうとして、だ。お前、今日はウチに泊まるんだろ? オレ、まだ神社の仕事残ってるんだけど、お前どうする?」
兼人が親指で自分の後ろを指した。一緒に来るか? と言いたいらしい。
青年は一度空を仰ぎ、そして山を見た。若葉の稜線が、白い空の端にくっきりと描かれている。
――あの場所で、僕は。
「寄りたい所が、あるんだ」
青年は振り返り、そして笑った。懐かしそうに、陽の笑みで。
舗装路を外れ、青年は森の中に足を踏み入れる。あの日のままの、土の匂い。分け入るごとに深くなっていく森の中、迷わずに進んでいく。
頭上を覆う木々で、辺りは薄暗い。鳥のさえずりに、草葉の擦れる音が規則正しく響く。
風が、吹いた。
森がざあっと鳴き、青年は森の天井を見上げる。
変わらない。
この町も、この山も、兼人も茅も、そして僕も。
少しずつ変わっていくものもあるけど、でも。
きっと、本当に大切なものは変わらない。
風が止んだ。
どこから運ばれてきたのか、歌が聴こえる。
柔らかな、伸びやかな声。
――そう、あの時も。
青年は歩き出した。今やもう、訪れる者さえいないその場所へ。
少しずつ歌声が大きく、はっきりと聴こえ始める。流れる旋律が表情を変え、しなやかに、あるいは染み入るようにとその様相が変化する。
青年が辿り着いた場所は、森の中でぽっかりと開けた場所だった。そこには空に蓋をする木々も無く、朝の太陽が優しい光を差している。
地面には、季節外れの朝露に濡れた、一面の月草。
その、緑の絨毯の真ん中で。
少女が、歌っていた。
肩の大きく開いた黒のワンピースが、白い肌によく似合っている。歌に合わせて揺れ動く黒髪は艶やかで、春の日を受けて時折キラリと輝く。
一歩。
青年は、月草の野に足を踏み入れた。
――だから、約束。
きっとまた会えるから。
少女が、こちらを向いて、
穏やかな、少し照れたような顔で笑う。
――ううん、絶対に、
少女の唇が動いた。
鈴の鳴るような声で、少女は、
青年の名前を、呼ぶ。
――会いに、行くから。
青年は駆け出した。
もう二度と口にすることは無いと思っていた少女の名。
それを、幾度も幾度も、声の限りに呼びながら。
月草が揺れて、光の雫が足元に舞う。
白い軌跡を描き、長かった夜を越えて。
――それは、太陽と、
朝露の、約束――。
了