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朝露の約束

四、七月

 ただ一人だけ。
 わたしを、わたしとして見てくれた人がいた。
 それだけで、わたしは良かった。
 きっと。
 いつかは、きっと。
 わたしは、人として受け入れてもらえる。
 誰かに、愛してもらえる。

 そう、信じていた。

 長かった梅雨が明け、日谷に夏がやってきた。照りつける陽光は、青葉を濃くする木々をより一層鮮明に浮かび上がらせる。時折そよぐ風が、汗の滲んだ肌に心地良い。
 響く、蝉の声。
 夏休みが、始まった。

 陽介にとって、ようやく訪れた長期休暇は〝悪魔伝説〟を調べるための絶好の機会だった。図書館、地元紙のバックナンバー、役場の町史を調べ尽くし、地元の人たちの家も一軒一軒訪ねて歩き、情報を集める。
 結果、収穫はゼロだった。
 陽介の知る限りでは、〝悪魔〟は三十年前まで実在したことになっている。当然、当時を知る人はまだたくさんいるはずなのだ。かと言って、意図的に抹消された痕跡も無く、町の人たちが何かを隠しているようにも思えない。
「ごめんね、真露。解決方法どころか、〝悪魔伝説〟すら、全然判らない」
 今日は、真露が陽介の家に遊びに来ていた。開け放たれた軒先から覗く外の景色は、強すぎる日差しで焼けたように輪郭を映している。少し奥の、影になる位置に置かれたテーブルには古い新聞の綴りが広げられ、畳で陽介が大の字に倒れていた。
「ううん、いいよ。陽介、一生懸命調べてくれてるもん」
 麦茶の注がれたガラスコップを指でなぞりながら、真露は言った。一番不安なのは真露のはずだが、不思議と嬉しそうな声色を含んでいる。
「だけどさ――」
 陽介はがばり、と起き上がると、広げたままだった新聞を畳んでいく。
「〝悪魔〟が言ったんだ。あいつを消せるのは、僕だけだって。だからきっと、何か方法があるはずなんだ」
 陽介の言葉に、真露は曖昧に笑ってコップに口を付ける。からん、と氷が鳴った。
「優しいね、陽介」
 陽介の顔が火を噴いた。真露はそんな様子に気付いた風でもなく、両手でコップを弄んでいる。
「え、あ、い、や、僕は、その……」
「優しいよ、陽介は。こんなに頑張って、助けようとしてくれるんだもん。だから、嬉しいよ」
 ことり、と真露は、ガラスのコップをテーブルに置いた。結露した水滴が、つい、と流れる。
「陽介が――」
 その顔は、何故か少し寂しそうで。
 陽介は、自分が慌てていることも忘れて真露の顔を見つめる。
「陽介が、ほんとに消してくれたら、いいのに」

 夜。
 大路神社に入った一本の電話が、発端だった。
「あの民間信仰、〝悪魔伝説〟とは関係ないみたいね。でも、これなんか似てるかも……陽介に電話してみよっと」
 資料を手にしたまま茅が居間へ行くと、茅の父、樹が電話を使っているところだった。すぐに終わりそうな雰囲気だったので、そのまましばらく待っている。どうやら、親戚と話しているらしく、もうじき来る母の法事についての話題らしい。
「そうですか。……いえ、お義兄さん、希さんのことは、貴方のせいでは……はい、いえ。分かりました」
 話が終わったのか、樹はチン、と静かに受話器を置いた。よほど電話に集中していたのか、さて、と立ち上がり振り向いたところで初めて茅に気が付いたようだ。二、三度瞬きをすると、樹は小さく溜め息を吐いて言った。
「茅。お母さんの法事な、今年も浩二伯父さん来れないって」
 浩二とは、茅の母親の兄にあたる人だ。樹から見れば、義兄になる。
「あ、電話、伯父さんからだったんだ」
 そういえば、長いこと会っていない。母の法事にも来たことが無いし、遊びに行ったことは何度かあるが、彼が日谷に立ち寄ったことなど、覚えている限りでは一度も無い。
「電話、使うのか?」
「あ、うん。使う使う」
「……陽介君だろ」
 樹は、茅が小脇に抱えた古い書物に目を遣って尋ねた。ずばり言い当てられた茅は、慌てて本を背中に回す。
「い、いいじゃない別に。陽介は『いつでも電話してほしい』って言ってたしっ」
「ほほぅ、随分仲がいいんだな」
 しまった失言だ、と口を押さえてももう遅い。樹にはしっかりと誤解されてしまった。
「まあ、今時珍しいじゃないか。日谷史に興味があるなんてね。茅が気に入るのも解るよ」
 もう何とでも言っておくれ。茅は一人納得している樹をほったらかして電話機と向き合った。
「そういえば、浩二伯父さんは日谷史に詳しかったな。ウチの蔵書とは比較にならない量の資料を持っているらしいから、紹介してあげたらどうだい? 今の内にポイント稼いでおかないとマズイだろう?」
 樹の言葉に、茅の動きがぴたりと止まる。そうだ忘れていた、伯父さんはそういうのにすごく詳しい人だった!
「お父さん、伯父さんちの番号って何番だっけ!?」

『――というわけなのよ。んで、伯父さんに訊いてみたら、予定さえ先に言っておいてくれたらオーケーだって。ねぇ、行ってみようよ』
 興奮気味の茅から電話が掛かってきたのは、午後十時ごろだった。日谷史に詳しいという茅の伯父は、〝悪魔伝説〟にまつわる資料も相当数持っているらしい。考えられるところをほとんど調べつくした陽介にとって、それはまさに天からの助けに等しかった。
「行く行く! 真露と兼人には僕から話しておくよ。出来るだけ早い方がいいけど、明後日でも大丈夫かな」
『訊いてみるね』
「本当にありがとう、茅。それじゃ、明日また電話するね」
 陽介は子機のボタンを押してから、よし、と拳を握り締めた。まだ判らないけど、これで真露を助けられるかもしれない。
 喜びに震える指で、真露の家の番号を押す。きっと、解決はすぐそこに迫っている。

 陽介からの電話を置いて、真露は溜め息を吐いた。その顔は、心なしか青ざめて見える。
 大路の者が、まだ残っていたなんて。
 あの時、〝悪魔〟にまつわる全ては消えたはずだったのに。だから、安心していたのに。
 怖い。真実を、陽介が知ってしまう。
 一緒に行きたいけど、一緒にいたいけど。畏れる陽介の目を、わたしは見たくない。そんなの、耐えられない。
 空を、見上げる。
 あの日と同じ、真天に昇る、満月だった。

「でも残念だよな、真露が来れないなんて」
 陽介たちは今、茅の伯父である唐塚浩二の家に来ていた。兼人が言った通り、真露は「用事がある」とかで、結局来ていない。
「予定が合わないなら変えるよ、って言ったんだけどね」
「まあいいじゃない。真露ちゃんがいなくても、問題無いわよ」
 浩二は今、資料室へ〝悪魔伝説〟に関する資料を取りに行っている。「事前に判ってたんだから、準備しとけよ」と言う兼人に対して、茅は「こういう人なのよ」などと、しれっと返した。
「まあね。資料はコピーを貰えばいいし、話を録るのにレコーダーも持ってきてるしさ」
 言いながらも陽介は、気が逸って仕方が無い。ずっと調べていた〝悪魔伝説〟の詳細が、ようやく判る。そうとあっては、落ち着けという方が無理なのかもしれない。
「おう、待たせたな三人とも」
 その時、三人が待っていたリビングに浩二が現れた。資料が入っていると思われる段ボール箱を二つ、胸の前で抱えている。彼はそれをテーブルの上にどんと積み上げると、口に咥えていたタバコに火を点けた。
「さてと――」
 丸眼鏡の向こうから覗く眼光は鋭い。浩二は一呼吸置くと、無造作に伸びた髭に隠れた口を開いて、話し始めた。

 〝悪魔伝説〟というのは、日谷で実際にあった出来事だ。無論、〝悪魔〟と呼ばれる存在は、実在している。……いや、実在していた、というのが正しいか。
 〝悪魔〟の始まりは、はっきりとはしていない。日谷で生まれたのだとも、他所から来たのだとも言われている。史に残らぬほど古くから存在し、日谷を守っていた。
 守護者なのに〝悪魔〟と呼ばれるのはおかしいと思うだろう。いや、もしも〝悪魔〟が人智を超えた存在であったなら、神と呼ばれ続けていたに違いない。
 そう、〝悪魔〟は決して、人が窺い知れぬ者ではなかったのだ。〝悪魔〟は神でも何でもなく……ヒトだったのだから。

 〝悪魔〟は、日谷に古くからある家柄に現れる、特殊な能力を有した人格のことだ。その血族は全てこの能力を持っていて、有事の際には〝悪魔〟の人格を解 放し、その能力で日谷を救う。その力は万能で、日谷の中でさえあればどのような不可能も可能にするが、それがいけなかった。
 その強大な能力を、村人が畏怖したのだ。〝悪魔〟の能力に守られながら、同時にその能力を畏れる。しかし、その加護無くしては生きられない。
 その歪んだ構図は、時を経るごとに酷くなっていく。
 能力者の一族は、村人たちから〝悪魔〟と呼ばれ遠ざけられた。子供たちも〝悪魔〟の子と遊ぶのは禁忌とされ、次第に、一族は一族だけで固まって生きるようになる。
 そして同時に、隔離された一族は自分たちを「特別な存在」だと認識し始めた。自分たちを〝悪魔〟と謗りながら、その畏怖すべき存在に縋らざるを得ない矮小な人間。〝悪魔〟能力者の一族は、そんな脆弱な人間たちとは違うのだと。己を誇れ、驕れと。
 こうして、能力者一族と徒人は、交わることなく月日が過ぎ、そして三十年前のある時を境に、〝悪魔〟に関するあらゆるものが消えてしまった。能力者の一族も、村人の〝悪魔〟に関する知識や記憶も、あるいはそれらが記された書物も、何もかも。
 残されたのは、既に村を出ていた何人かの記憶と、浩二が持ち出した資料だけ。
 実在した〝悪魔〟は、こうして伝説として語られるに至った。

 浩二の話は、要約すればこのようなものだった。話を聞き終えた三人は、誰も口を開けない。
 〝悪魔〟は人間だった。畏れられ、隔離され、そしてそれ故驕り高ぶるに至った――傲慢な、人間。
「……怖ぇな、人間って……」
 兼人がぽつりと呟いた。自分と違う者を排除し、そのくせ彼らに頼って生きている。そして〝悪魔〟能力者一族もまた、自分たちが持つ能力に溺れ、村人を見下して生きていたなんて。
「ああ、怖いさ、人間はな。他のどんな動物よりも優しくて、賢くて、驕慢で、残酷だ」
 浩二が静かに応える。彼は三十年前、〝悪魔〟がいなくなる前に日谷を出たそうだから、その様を自分の目で見ていたことになる。
「でも、〝悪魔〟って神霊の類じゃなくて、人間だったんだね。でも、それだと真露ちゃんの『悪魔憑き』って仮説が成り立たなくなるわね」
 何気なく言った茅の言葉に反応したのは、陽介ではなくて浩二だった。
「真露……? そう言やぁ、茅ちゃんたちはどうして〝悪魔伝説〟を調べてんだ?」
「僕の友達の様子が、時々おかしくなるんです。それで、そいつは自分のこと、『日谷の悪魔だ』って……」
「そのお友達が、さっきの真露って子なのかい、陽介君」
 少し様子がおかしい浩二に、陽介は首を縦に振る。浩二はダンボールの中を漁りながら、尚も質問を続けた。
「その子の苗字は?」
「霧代です。霧代真露」
 浩二は取り出した少し大きめの冊子を黙って繰っていたが、やがてあるページに当たると、それを陽介たちに向けた。それは集合写真で、性別も年齢もバラバラな人たちが二~三十人写っている。その、ある一点を浩二の指が指し示していた。
「それって、この子か?」
 三人が一斉に覗き込み、目を凝らす。小さくて不鮮明だが、そこに写っているのは間違いなく――。
「ああ、こりゃ真露だぜ。なぁ茅?」
「うん。ちょっと小さいけど……間違いなく真露ちゃんだと思う」
 和服を着ているせいか、少し雰囲気が違って見える。しかし、見紛うはずがない。兼人も茅も、即答する。
「真露です。ここに、写ってるのは」
 最後に、陽介が答えた。嫌な、予感がする。
「そうか……」
 浩二はその答えに、顎を触りながら考え込んだ。
「おっちゃん、これ何処で撮ったもんかな。こいつは絶対に真露だけどさ、この周りの奴ら、オレ知らないぜ」
 兼人はまだ写真を見ている。横に座る茅が、自分も、というように頷いた。
「知ってるはずないさ。その写真は三十年前、俺が日谷を出る直前に撮ったもんだからな」
「さ、三十年前!? だけどこれ、間違いなく真露ちゃんよっ?」
 茅が大声を上げて椅子から立ち上がる。陽介も兼人も、驚きを隠せない。
「俺がまだ大路神社にいた頃の話だ。〝悪魔〟能力者の一族は毎年、正月に神社にお参りに来ていてな。偶々その年だけは、気紛れで記念写真を撮ったのさ」
「そんな……まさか……」
 陽介の口から、声が漏れる。嫌な予感が少しずつ、現実になっていく実感。〝悪魔〟は言った。「『わたしは』霧代真露、日谷の〝悪魔〟」と。
「能力者一族は、姓を『霧代』っていってな。その子は、俺が知る限りでは最後に生まれた〝悪魔〟、名前は、『真露』だ」
 打ち砕かれた。
 〝悪魔〟は、初めて現れたあの日から既に伝えていたのだ。〝悪魔〟と真露は、同じ存在だと。
「けど、じゃあこの写真は三十年も前のもんなんだろ? 真露はオレらと同い年だぜ? そんな老けてるようにゃ、ちょっと見えねぇんだけど」
 兼人が、当然の疑問を呈する。そうだ、考えてみれば、これは三十年前の写真だ。この「真露」と真露が同一人物であるという証拠など、何も無い。
「兼人君。じゃあ訊くが、なぜ〝悪魔〟に関する全てが、一瞬で消滅したんだと思う? どうすれば、人の記憶まで操れる?」
「え? あーそりゃあ……」
「もしかして、〝悪魔〟の能力……?」
 茅が、はっと気が付いたように言った。
「茅ちゃん正解。俺はな、〝悪魔〟消滅の影には、同じ〝悪魔〟が絡んでいると見ている。もしも君らの言う真露ちゃんが彼女と同一人物だとしたら、やはり〝悪魔〟の能力が絡んでるんじゃないか?」
 少なくとも日谷の中に限れば、〝悪魔〟に出来ないことは無い。なら、もしかしたら真露が――。
「真露が〝悪魔〟になって、自分を不老不死にしたとか……?」
「そりゃ無理だ」
 陽介の思い付きを、浩二はにべもなく否定した。
「〝悪魔〟になっていられるのは、せいぜい十数分。一度〝悪魔〟になると戻れんし、この時間を過ぎると、能力者は死んじまうんだよ。それにな、〝悪魔〟の能力にだって、出来ないことはあるんだぞ」
「それは?」
 茅が、先を促す。今は、少しでも情報が欲しい。
「まず、自分自身には適用出来ない。他の〝悪魔〟が及ぼした影響に干渉出来ない。それから、時間を遡る必要がある効果は発生しない」
「っつーか、最後のやつは意味が解んねぇんだけど」
「兼人君にも解るように説明するとな。既に起こったことを、無かったことにする、なんてのは無理ってことだ」
 〝悪魔〟の能力には限界があって、それを超えない限り真露はここに存在出来ない。そもそも真露は、もう何度も〝悪魔〟になっては何事も無かったかのように元へ戻っている。少なくともその現象一つ取っても、浩二の話では説明が付かないことが多すぎて、何が何やら解らない。
「真露に、訊くしかないかな」
「だけど、覚えてるようにも見えないよ」
 呟く陽介に、茅が返す。
「それに、この『真露』が真露ちゃんだっていう確証も無いわけだしさ。もう少し、調べてからにしようよ」
 陽介は不安げな顔で、茅の言葉に頷いた。何か、根本的なものが違う――そんな、確信めいた警鐘を聞きながら。

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