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朝露の約束

五、八月

 大切な人がいなくなった屋敷は、何もかもが空虚だった。
 ここでは、わたしは〝悪魔〟を持つ者でしかなく、「霧代真露」という名前も、個体を区別するために付けられた標識でしかない。
 わたしが、わたしでなくなっていく感覚。
 溶けていく。わたしが、消えていく。
 いやだ、このままじゃ、わたしが――霧代真露が、消えてしまう。
 〝悪魔〟じゃない、わたしは〝悪魔〟なんかじゃない。〝悪魔〟のわたしなんか、誰も覚えていなくていい。わたしは――

 霧代真露を、たった一人でいい、わたしを、覚えていて欲しい。

 お願い。

 ――存在を、消さないで。

「きゃはっ、そーれっ!」
 水着姿の茅が、足元の水をすくって兼人にかける。
「うわっぷっ。んのやろっ」
 茅の攻撃を顔面に受け、兼人も負けじと応戦した。飛び散る水滴が、強い午後の日差しを受けてキラキラと輝いている。響く嬌声、歓声。
 今日は、いつもの四人で水浴びに来ている。

 浩二から得た情報は、正直なところ、陽介を混乱させただけだった。真露が三十年前の人だなんて、信じられるわけがない。
「いや、オレも茅もさ、ずっと真露と学校に通ってた気はするんだけどな。小学生ん時だって、見たような気がするし」
 帰ってきてから、兼人は何かを独自に調べていたらしく、数日後、陽介と茅は彼の自宅に呼び出された。
「んで、調べてみたんだよ。小学生ん時の卒業アルバム。そしたらさ……」
 兼人が、少し小ぶりなアルバムを開く。そこには、今のクラスメイトたちがやや幼い顔立ちで並んでいた。
「無いんだよ、真露の名前。写真も残ってない」
 何度調べても。
 そこに、「霧代真露」の名は無い。
「何人かにも訊いたんだけど、みんな言うことは同じでさ。『小学校から一緒だった』って。んで、卒業アルバム見せたら『中学に入ってから引っ越してきたんだったっけ』って……」
「あたしも。友達に訊いたけど、やっぱり同じ答えだったよ」
 何なんだろう、この作為すら感じる、申し合わせたような反応は。そこにあるのは確かな異常なのに、誰もそれを気にしない違和感。見えない何かが、知らない何かが隠蔽している。
「どう考えても、意識操作されてるよね。……多分、〝悪魔〟に」
 茅の言う通り、もうそれしか考えられない。まさか本当に、真露が三十年前の人間だというのだろうか。
「僕は……どうしたら、いいのかな」
 そもそも、陽介が〝悪魔伝説〟についてここまで必死に調べたのは、偏(ひとえ)に真露を助けたいがためだった。よもやここまで風向きが変わろうとは、誰が予想しただろう。もし真露が三十年前の人間だとしたら、彼女が〝悪魔〟になるのは――十分非常識だが――当たり前だ。普通の人間である陽介たちに、どうこう出来る問題でもない。
「とりあえずは、いつも通りでいるしかねぇんじゃねぇの? 問題が真露本人にあるんなら、オレらじゃどうしようもねぇだろ」
 兼人が、軽い溜め息と共に言った。
「っつーか今んトコ、何一つ判っちゃいねぇんだ。そうそう焦って答えを探す必要もねぇさ」

 とはいったものの、残念ながら陽介はそれほど器用ではない。意識しちゃ駄目だと思いつつも、いざ真露本人を目の前にするとギクシャクしてしまい、却って彼女を不安にさせてしまうだけだった。それを見かねた兼人たちが、四人での水浴びを提案した、という次第である。
「水浴びって、川?」
「いや、池だよ。地元でも穴場っつーか、あんまり知られてねぇ場所があってさ」
 現地集合なのだが、陽介は場所が判らない。真露たちは着替えがあるからとかで先に行っており、そのため兼人に連れられて件の池に向かっている。
「池って……泳いで大丈夫なの?」
「あ? 泳いじゃダメな池なんてあんのか?」
 さすがは田舎っ子というべきか、実に頼もしいお言葉である。
「さぁてと、着いた着いた。ここだぜ、どうよ?」
 そこは、径にして五十メートルほどの池だった。土手の上から見える水面は、確かに澄んでいて気持ちが良さそうだ。西側は岩場が多いが、東側は一部が砂地になっていて、まるでビーチのように見える。
「よし、降りるぜ。多分あいつら、待ってるだろうからさ」
 兼人はそう言って池へと滑り降りた。頭上から遠慮容赦無しに照り付ける太陽を仰いでから、陽介も後に続く。冷たい水が、呼んでいた。

「あ、来た来た。おーい、陽介ぇ、兼人ぉ!」
 砂地に立って、茅が手を振っている。
「おー、悪ぃ悪ぃ、遅くなっちまった」
 先に泳いでいたのか、茅の髪は濡れていた。白地に朱のラインが入ったビキニタイプの水着は、常衣をイメージしたものだろうか。健康的に日焼けした褐色の肌に、よく似合っている。
「えへへー、どう? 陽介」
 茅が腰に手を当てて、くりん、とポーズを取った。普段は全然意識しないが、こうして見るとやっぱり茅は女の子なんだなぁ、と陽介は妙な事を考えてしまう。
「ど、どうって言われても……に、似合ってるよ、うん」
「あはは、赤くなってるーっ」
「あんまりヨースケを苛めるなよ。それより、真露は?」
 兼人が苦笑交じりに茅を諭した。茅はごめん、と全く反省の色を見せない謝罪をして、陽介たちの後ろを指差す。
「後ろ。さっきまで、泳いでたから」
「えっ?」
 振り向くと、そこに真露がいた。紺よりもやや淡い、蒼と言った方が正確だろうか、濃い色合いの水着が、真露の白い肌によく映えている。茅と違いハイレグタイプで、背中には細めの大きなリボンが一つ、付いていた。
「あ、えっと……」
 一斉に三人の視線を浴びて、真露は居心地が悪そうにもじもじしている。
 ――うわ、何と言うか、可愛いな……。
 茅に比べれば地味な水着ではあるが、むしろそれが真露には似合っている。よく言えば開放的、身も蓋も無い言い方をすればあけすけな性格の茅では、ちょっとこういうおしとやかな女の子像は期待出来そうにない。真に不覚ながら、陽介は思わず見とれてしまった。
(おい)
 兼人が、肘で陽介の脇腹を小突く。
(何か言ってやれよ、ヨースケ)
(ぼ、僕がっ?)
(お前が言わんでどーすんだ、この朴念仁)
 酷い言われようだ。
(何かって、何を言うのさ)
(こういう時は「似合ってる」とか言うだろ、普通)
(そんな恥ずかしいこと言えないよ)
(茅の奴には言ってたじゃねぇか)
(いや、それは何か平気だったんだけどさ)
 二人の腹の小突き合いは続く。
(誰のために今日、このイベントを企画したと思ってんだ。オレらの苦労を無駄にすんじゃねぇよ)
(自分が楽しんでるだけのくせに……)
 恥ずかしいが、どうやら言うしかないようだ。陽介は覚悟を決めて、息を吸い込む。
「あ……に、似合ってる。可愛いよ、真露」
 真露の顔が、みるみるうちに朱に染まる。思わず兼人は、小さく吹き出した。
(な、何だよ。兼人が言えって言うから……)
(何で渋ってたくせに、あんな台詞がすらっと出るかね……ったく。ぷくく……)
 笑うな。陽介は思いっきり、兼人の足を踏んづけた。
「あ……ありがとう。陽介も似合ってるよ」
 真露が俯きながら言う。茅は正面から、真露の両肩を叩いて、言った。
「真露ちゃん、それ、男は言われても喜ばないよ」

 池の中央付近で、兼人と茅が腰まで水に浸かりながら遊んでいる。どうやら、見た目ほどの水深は無いらしい。陽介は二人の様子を、水際の砂地に座ってぼうっと眺めていた。
 隣には、真露が座っている。
 訊きたいことはたくさんあった。言いたいことも、たくさんあるはずだった。
 だけど言えない。出てこない。
 何から訊けばいいのか、どう訊けばいいのか。何を言いたくて、何を言うべきなのか。色んな考えが渦を巻いては形を変え、そして同じ場所へと戻っていく。
 先日、〝悪魔伝説〟について話を聞きに行ったことを、真露は知っている。何を聞いたのか、陽介は伝えていない。何か訊かれたらどうしようか、と気が気でなかった陽介だが、真露は一向にそのような気配は見せなかった。
 真露が時折、ちらりとこちらを伺うように視線を流す。
 分かるんだ、何となく。真露も気になっていることがあって、それを訊けないでいることが。
 どうして、どうして尋ねてくれない? 「この間の話、どうだったの?」って、ただ一言訊いてくれれば、こんなこと考えなくていいのに。あの「霧代真露」は同姓同名、他人の空似だって、安心出来るのに。
 遠く、二人の声が聞こえる。
 兼人たちはどう思ってるんだろう。やっぱり、真露が三十年前の人だって思っているんだろうか。だったらどうして、いつも通りでいられる? もし真露が……本当にそうなら……。

 だけど。
 だけど真露は、ここにいる。
 その事実は、変わらない。

 僕は、どうしたかった?

「ふぃー、びしょびしょ。陽介、兼人がね。『座ってないでちょっとは付き合え』ってさ」
 兼人との一戦がひと段落付いたのか、茅が陽介たちの所へと歩いてきた。
「わかった。……ねぇ、真露」
 そうだ、決めたんだ。あいつだって、言ってたじゃないか。
 茅への返事の後、陽介はその決意を、真露に伝える。
「僕、真露を助けるから。何があっても、絶対に」
 陽介は立ち上がり、池の中で何やら叫んでいる兼人に大きく手を振ると、駆け出した。陽を照り返す水面が、眩しかった。

「よいしょっと。あー、ちょっと疲れたぁ」
 真露の隣、さっきまで陽介が座っていた場所に腰を下ろすと、茅は両手を後ろに突いて仰け反った。
「真露ちゃんは行かないの?」
「あ、うん。ちょっと……そういう気分じゃなくて……」
 真露は茅から目を逸らして、語尾を濁す。陽介の言葉が効いているようだ。
「いいけどね、泳ぎたくなけりゃ。……にしても、言うねぇ、陽介もさ」
 真露の身体が強張る。やっぱりね、と密かに横目で確認しながら、茅は続けた。
「あんたが何を隠してるかは訊かないけどね。陽介は、覚悟を決めたみたいよ」
「隠して……なんか……」
「いいわよ、それならそれで。さぁてと、あたしはもうひと泳ぎしてこよっかなあ」
 跳ねるように立ち上がり、お尻の砂をぽんぽん、と叩き落しながら、茅は再び池の中へと入っていった。真露は動けない。陽介と茅の言葉が、静かに胸に突き刺さる。
 どこまでかは分からないけど、きっと知ってしまったんだ。わたしが、普通じゃないって。知られたくなかったのに。陽介には、知られたくなかったのに。
 だけど、陽介は言ってくれた。わたしを助けるって。陽介なら全部話しても、わたしを受け入れてくれるかもしれない。
 でももしダメだったら? 陽介が、わたしを拒んだら? きっとそんなの、耐えられない。
 どうすればいい? わたしは、どうすればいいの?

 陽介はわたしを、どう思ってるのかな。

「陽介!」
 硬直した真露の思考を中断したのは、絹を裂くような茅の叫びだった。声のする方を見れば、陽介が見るからに溺れていると分かる様子でもがいている。
(陽介が……!)
 そう思った瞬間、頭の中が真っ白になり、気が付けば〝悪魔〟を呼んでいた。真露の瞳が、真紅の珠へと染め移る。
「術法、遍、〝地力転回〟、凝固」
 〝悪魔〟の言葉と共に、池の水が陽介まで一直線、左右に割れる。慌てて駆け寄った兼人が、池の底に落ちた陽介を〝悪魔〟のいる砂地まで引き摺っていった。
「ったくバカっ。真ん中より向こうっ側はいきなり深くなってっから行くなっつーたろうが」
「う……ごめ……」
 何か言おうとしたようだが、少し水を飲んだせいか、後半は咳き込んでしまい分からない。
「〝悪魔〟が助けてくれたから良かったけど……ねぇ」
 茅の言葉に、砂地で仰向けに倒れたまま、陽介は頭上の〝悪魔〟を見上げる。
「……どうして、僕を助けるの? 僕は、君を消そうとしているのに」
「真露がそう望んだから」
 短く、最低限の言葉を〝悪魔〟は紡ぐ。その紅い瞳に飲み込まれぬよう、陽介は深呼吸を一つしてから、尋ねた。
「君は、誰?」
 〝悪魔〟の唇が、ゆっくりと動く。真露と同じ、しかし、その隙間から発せられる声は、静謐で、荘厳で、ただ、遠い。
「わたしは霧代の〝悪魔〟能力者、名は、真露」
「そっか……」
 陽介は溜め息と共に、瞼を閉じた。
「やっぱり、そうなんだ」
 〝悪魔〟もまた、眠るように目を閉じる。膝から崩れていく身体を、兼人が後ろから抱き止めた。
 頬には、一筋の涙の跡。
 泣いているのは〝悪魔〟だろうか。それとも――。

 眠れない。
 陽介は、床に就いてから何度目かの寝返りを打った。アマガエルの声が、夜半の空気を震わせる。
 あの時〝悪魔〟は言った。自分の名を、霧代真露と。
 多分、もう間違いは無いだろう。
 〝悪魔〟の言う、「自分を消せるのはお前だけ」というのは、ならどういう意味だったのだろうか。真露から〝悪魔〟だけを消し去る方法があるのだとして、それはどうやって? どこを調べればいいんだろうか。
 判らない。自分はまだ、何も判っちゃいない。それでも、真露を助けたいんだ。
 決めよう。僕は、もう迷わないって。
 陽介はそっと起き上がると、簡単に支度をして家を出た。外はまだ薄暗い。陽介は、山の頂上付近を一瞥すると、ゆっくりと歩き始めた。

 草葉を掻き分け、陽介はその場所に辿り着いた。山の中、峠道からは逸れた所にあるそこへ迷わずに至る自信は全く無かったが、何かに導かれるようにして今、ここにいる。
 空の端が、白み始めた。
 吸い込む空気は少し湿っぽく、涼しげで心地良い。深呼吸一つ、陽介は一歩を踏み出した。
 視界が開ける。四月に、真露と初めて会った場所。緑の絨毯が敷き詰められた広場、その中央に。
 あの日のように、真露が立っている。
 一歩ずつ、距離を縮めていく陽介。真露が、首を傾けるようにして陽介へと視線を送る。
「よく、来れたね」
 鈴の鳴る声。陽介はただ、頷くことで応える。
 その足を踏み出す度、二人を隔てる距離が減っていく。もっと、もっと。近くにいたい、傍にいたい。
 やがて、陽介の足が止まる。手を伸ばせば届く距離、真露の隣に、並んで立つ。
「ここ、真露が『お気に入りの場所』だって言ってたから」
 真露は応えない。広場を囲む木々のうち、東側だけは遮るものも無く、徐々に明るさを増していく空を望むことが出来た。もうすぐ、夜が明ける。
「これ……露草?」
 陽介は、足元を指差して尋ねた。よく見れば広場一面に生えていて、ちらほらと青い可憐な花が咲いているのが見て取れる。
「うん。この辺りだとね、『月草』って呼ばれているけど」
 その声音は、何だか寂しそうだ。真露はすっとしゃがむと、足元の小さな花を愛しそうに優しく撫でる。
「月草の花弁ってね、青くて綺麗なのが二枚と、白くて目立たない、小さなのが一枚なの」
 どうしてだろう。真露の背中が、今にも消えてしまいそうに思える。
「悲しいよね。確かにそこにあるのに、誰もそれを気にしない。いなくなったって、気付かない」
 こんなに綺麗な花だから、綺麗過ぎるから。だからかな、と真露は、痛みの混じる笑顔で呟いた。
「真露は、月草が好きなの?」
 ゆっくりと立ち上がった真露に、陽介は訊いた。
「うん、好き。綺麗で――可哀想だから」
 そう言って真露は、再び前を――東の方、木々の切れ目を見る。陽介も倣って、黙って空を眺めていた。
 ――いや、違う。真露は待っているんだ。
 二人は言葉も無く、ただ空を見つめ、そして。
 ついに、というには些か静かに、その時は来た。山間から少しずつその端を覗かせる朱の明け。差し込み広がる朝陽に、空と地の境目が赤く染まる。
 少しずつ、陽光で真露の場所が満たされていく。淡く、優しく、柔らかく。
「……あぁ……」
 二人は、黄金色の大地に立っていた。月草に置かれた露が朝陽を跳ね、眩しいほどに輝いている。陽介は思わず、嘆息を漏らした。
「綺麗でしょ?」
 ややあって、真露が静かに呟いた。
「だけど、ずっとは続かない。陽が昇れば、この朝露も消えちゃうから」
 輝けるのは、一瞬だけ。真露は、身体ごと陽介に向き合った。
「わたしも、同じ。聞いたんでしょ? 〝悪魔〟に」
 その目は悲しげで――そして決意を、含んでいる。
「……うん」
 やっぱり、真露は知っている。〝悪魔〟になっている間の記憶は、ちゃんとあるんだ。
「わたしは、ずっとここにいる。だけど、それじゃ不自然なの。年を取らないなんて、普通じゃないから……だから――」
 真露は少しの躊躇の後、はっきりと、こう言った。
「一年経ったらね、みんな、わたしのことを忘れるようになってるの」
 風が黄金野の月草を揺らして、過ぎ去っていく。
「だからお願い。もう、わたしに関わらないで。陽介はわたしを忘れるし、わたしも陽介を忘れちゃうから。だから……」
 忘れる? 真露が僕を、僕が真露を……?
 真露が踵を返す。一歩一歩、その背中が遠のいていく。陽介は足が縫いつけられたかのように動けない。黄金色を踏みしめ、真露が去っていく。
 その背中が見えなくなっても、陽介は身動ぎ一つ出来なかった。真露の言葉が、ぐるぐると頭を駆け巡る。
 陽が、徐々に高くなっていく。朝露が、乾き始めていた。

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