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朝露の約束

八、十一月

「あたし、陽介が好き。友達としてじゃなくて、もっと、特別な」
 その瞬間、全てが止まったような気がした。既に時間が止まっている自分が言うのも変かもしれないが、あの時確かに、そう思った。
 少しだけ期待、いや、甘く見ていたのかもしれない。まさか、言うはずがないと。しかし真露のそんな淡い願いは、簡単に打ち砕かれた。
 茅は、いつだって本気だ。それは今とて例外ではない。
 陽介の口が動く。その答えを、茅に返すために。
 遠くなる。遠ざかる。消えてしまう。陽介は私を見てくれたのに。追いかけてくれたのに。
 頭の中が、真っ白になる。無我夢中で、その一歩を踏み出した。
 嫌だ、行かないで。私を忘れないで。茅さんを見ないで。その先を、言わないで――。

 そして、叫んだ。自分が何を言っているかも、気付かぬうちに。

 怖かった。
 陽介が、自分を見てくれなくなることが。茅しか見なくなることが。
 そして、何より。
 陽介が、自分を忘れてしまうことが。

 真露は一人、闇の中で目を伏せる。
 私、甘えていたんだ。
 追いかけてくれる陽介に、私を私として見てくれる陽介に。
 なのに、逃げていたんだ。
 陽介に忘れられるのが怖くて。陽介に拒絶されるのが怖くて。
 茅の言う通り、今までの自分は逃げていた。そして、多分だからこそ、この三十年間を終わらせられずにいるのだろう。自分が望んだのは、こんなことではなかったはずだ。

 ――踏み出そう、前に。

 茅がそうしたように、何かを変えたいのなら。
 気付いたのだから。自分は何が欲しかったのか、何を求めていたのかに。
 陽介が受け入れてくれるかは判らない。もし受け入れてくれても、彼には重過ぎるものを背負わせることになる。そしてどうするかは、陽介しか選べない。
 でも、それでも。
 私は、陽介が選んだものを受け入れる。どんな答えでも、彼が出したものなら受け止める。

 私は、陽介が好き。
 特別な理由なんて無いけど。だけど、茅さんに訊かれても今ならちゃんと答えられる。
 だから、お願い。

 茅さんに、応えないで。

 燃えるような夕べの朱に、屋上は染められていた。吹く風は冷たく、近く訪れる冬の気配をひしひしと感じる。山の木々は、もうすっかり冬支度を整えたようだ。
 鉄柵に手を掛け、校庭を見下ろす。部活に勤しむ生徒たちの姿が、小さく見えた。
 陽介の隣には、こちらは柵に背を預けた兼人の姿。両手をポケットに突っ込み、目を閉じたまま彼の話を一通り聞き終えると、呆れたように言った。
「で、相談ってそれか? 茅に告白されて、どう返事するかで悩んでる……と」
 陽介は黙って頷く。
「何だよそれ。っつーかそれをオレに相談するか普通? ――まあいいや、お前が鈍いのはよーく知ってるし」
 遠く、歓声が聞こえる。ややあって、兼人が口を開いた。
「で、お前さ。茅のことをどう思ってるわけ?」
 いつもの軽口からは想像もつかない、低いトーン。相変わらず兼人は目を伏せたままだ。
「少なくとも嫌いじゃないよ。一緒にいて楽しいし、想ってくれてるのも判るんだ。でも……」
「じゃあ何で悩んでんだよ」
 陽介の言葉を遮って、兼人が問う。
 そう、自分は一体なぜ悩んでいるんだろう。茅の気持ちは嬉しいのに、それを素直に受け入れていいのか判らないでいる。
 黙りこんでしまった陽介に溜め息一つ、兼人は質問を変えた。
「じゃあさ、お前はどうしたい?」
 それが判らないから相談しているのに――。陽介は、知らず苦い顔になる。
 もし、茅の気持ちを受け取ったら……そう考えて、真っ先に浮かんだのは真露のことだ。自分は約束した。たとえ彼女自身が自分を避けようとも、その約束を守るってもう決めたのだ。しかし、もし茅を受け入れたら、多分もう逃げる真露を追えない。
 だけど、もし茅を拒んだら。きっと茅を傷付ける。傷付けたことに、自分も傷付く。それは嫌だった。
「僕は――どうすればいいのかな」
「知るか。お前が決めろよ。っつーかお前、オレの話聞いてたか?」
 陽介の呟きを拾って、兼人が言う。その口調は、いつもの軽い兼人に戻っていた。
「言ったろ。『どうしたいのか』ってな」

 そうか。
 僕は、だから悩んでいたのか。
 僕は、真露を追いたい。だけど、茅を傷付けたくない。どちらも本当で、嘘じゃない。だから決められない。
 でも、真露を追うことは誰も望んでいないんだ。当の真露すらも、僕を拒んでいるんだから。「すべき」で考えるなら、僕がすべきは決まっているはずなのに。なのに悩むのは、つまり――。

「兼人、僕……」
 鉄柵を、強く握り締める。視線は遥か下、校庭に向いていても視界はそれを捉えていない。見えているのは、別のもの。
「オレに言ってどーすんだ、ヨースケ。……茅が待ってる、言って来い」
 兼人の言葉に、陽介は頷いて走り出した。
 決めた。正しいかは判らないけど、でも、決めた。
 屋上を降りる直前、陽介は振り返って兼人を見た。その姿勢は変わらず、柵にもたれたままだ。陽介は親友に礼を言おうと口を開きかけて、止めた。今は、行かなきゃ。
 茅のところに。

 重い鉄扉が閉まる。
 兼人はふーっと大きく息を吐くと、目を開けた。
「……ったく、茅もヨースケも。その無鉄砲さが羨ましいぜ、ホントに」
 空を仰ぐ。紫苑の空が、やたらと寂寥感を煽る。
「『お前が決めろよ』か……」
 いつの間にか、校庭は人気が無くなっていた。一人取り残されたような気分を味わいながら、兼人はただ、空をぼうっと眺める。
「結局、何も選ばなかったオレが言う台詞じゃなかったよな」
 でも、だからってそれが悪かったとは思わない。それが一番いいと思ったからそうしたのだから、それは当然なのだ。それでも――。
「後先考えないで飛び出すってのも……悪くなかったかなぁ」
 ま、オレのスタイルにゃ合わねぇよな。
 一人苦笑を漏らして、陽介の消えた鉄扉に視線を向けた。
 ――何を選んだかは知らないけどさ、ちゃんと思ってること伝えろよ、ヨースケ……。
 落ちていく夕陽の中。
 兼人は再び、ゆっくりと目を閉じた。

 陽介が教室に戻ると、茅が待っていた。
「あ、やっと帰ってきた。ね、一緒に帰ろ?」
 茅は、机の横に掛けてあった陽介の鞄を掴んで掲げた。陽介の足が止まる。
「茅。話が、あるんだけど」
 切らした息を整えながら、陽介は切り出した。二人だけの教室に響く、堅い声。茅はゆっくりと、手にした鞄を机の上に置いた。
「何? どうしたの?」
 小首を傾げる茅。陽介は、大きく息を吸い込んだ。
「この前の返事、しようと思って」
 茅の表情が、一瞬強張る。言おう、言わなきゃ。
「僕、茅のこと嫌いじゃない。ううん、好きだよ。話も合うし、茅、親切だし。それに、一緒にいて楽しかった。ずっと一緒にいられたらいいなって、そう思えた」
 斜めに差し込む夕陽が、教室を――茅の顔を照らしている。その顔は今、何を思っているのか。
 だけど、と陽介は続ける。
「正直、そんなこと考えたこと無かったんだ。茅は茅で――大事な、友達だったから」
 陽介の言葉に、空気が揺れる。
 そして、それを口にした。
「だから、ごめん。茅の気持ちは嬉しいけど、僕は応えられない。友達以上には、考えられない」
 茅の、痛そうな顔。彼女は何も答えず、時が凍ったかのような錯覚を受ける。
 ややあって、沈黙を破ったのは茅だった。
「真露ちゃんのこと、好きなの?」
 呟くように、漏らすように紡がれたその言葉に、陽介は静かに頷いた。
「判らないけど、多分。――真露を、忘れたくないんだ」
「あの娘は陽介を避けてるよ。それでも?」
 祈るような、縋るような目だ。茅がこんな表情をするなんて、思っていなかった。
「うん。忘れるなんて、嫌だから。だから、決めたんだ」
 そっか、という茅の呟きは、陽介の耳には入っていない。茅は再び陽介の鞄を手に取ると、陽介の方へと歩み寄った。
「ほら、もう遅いしさ。帰ろう」
 いつもの笑顔で、茅は言う。
 陽介は少し驚いた顔で、自分の鞄を受け取った。
「茅……」
「あ、あたしちょっと用事思い出したから、先に帰ってて。ごめんね、一緒に帰れなくて」
「それはいいけど……」
「それじゃ、また明日ね」
 何度も振り返りながら、陽介が教室を出て行く。がらりと戸が閉められ、足音が遠のいていく。
 再び教室に訪れる静寂。
 ――やっぱり、ダメ、だったか……。
 茅は俯き、胸の痛みを堪える。判っていた。こうなることなんて、判っていたんだ。
 だけど、私が自分で決めて、自分で選んだんだ。――他ならぬ、私自身の気持ちで。
 これで良かった。私が選んだことは間違いじゃない。間違いでなんて、あってたまるものか。
 だって、消えない。
 彼が私に向けてくれた笑顔も、この痛みも、絶対に、嘘じゃない。確かにここにあって、消えて無くなったりなんかしないんだ。
 私は、ちゃんと選んだ。何度同じ場面に遭ったって、同じ選択をしてみせる。後悔なんて、するもんか。
 ぽたり、と落ちる雫が机を濡らす。跳ねて散り、夕陽を受けて朱に光る。
 辛くないわけじゃないけど。
 だから、今だけ。今だけは泣いてやる。
 明日からまた、笑わなきゃ。
 胸を張って、陽介の前で。

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