朝露の約束
八、十一月
「あたし、陽介が好き。友達としてじゃなくて、もっと、特別な」
その瞬間、全てが止まったような気がした。既に時間が止まっている自分が言うのも変かもしれないが、あの時確かに、そう思った。
少しだけ期待、いや、甘く見ていたのかもしれない。まさか、言うはずがないと。しかし真露のそんな淡い願いは、簡単に打ち砕かれた。
茅は、いつだって本気だ。それは今とて例外ではない。
陽介の口が動く。その答えを、茅に返すために。
遠くなる。遠ざかる。消えてしまう。陽介は私を見てくれたのに。追いかけてくれたのに。
頭の中が、真っ白になる。無我夢中で、その一歩を踏み出した。
嫌だ、行かないで。私を忘れないで。茅さんを見ないで。その先を、言わないで――。
そして、叫んだ。自分が何を言っているかも、気付かぬうちに。
◇
怖かった。
陽介が、自分を見てくれなくなることが。茅しか見なくなることが。
そして、何より。
陽介が、自分を忘れてしまうことが。
真露は一人、闇の中で目を伏せる。
私、甘えていたんだ。
追いかけてくれる陽介に、私を私として見てくれる陽介に。
なのに、逃げていたんだ。
陽介に忘れられるのが怖くて。陽介に拒絶されるのが怖くて。
茅の言う通り、今までの自分は逃げていた。そして、多分だからこそ、この三十年間を終わらせられずにいるのだろう。自分が望んだのは、こんなことではなかったはずだ。
――踏み出そう、前に。
茅がそうしたように、何かを変えたいのなら。
気付いたのだから。自分は何が欲しかったのか、何を求めていたのかに。
陽介が受け入れてくれるかは判らない。もし受け入れてくれても、彼には重過ぎるものを背負わせることになる。そしてどうするかは、陽介しか選べない。
でも、それでも。
私は、陽介が選んだものを受け入れる。どんな答えでも、彼が出したものなら受け止める。
私は、陽介が好き。
特別な理由なんて無いけど。だけど、茅さんに訊かれても今ならちゃんと答えられる。
だから、お願い。
茅さんに、応えないで。
◇
燃えるような夕べの朱に、屋上は染められていた。吹く風は冷たく、近く訪れる冬の気配をひしひしと感じる。山の木々は、もうすっかり冬支度を整えたようだ。
鉄柵に手を掛け、校庭を見下ろす。部活に勤しむ生徒たちの姿が、小さく見えた。
陽介の隣には、こちらは柵に背を預けた兼人の姿。両手をポケットに突っ込み、目を閉じたまま彼の話を一通り聞き終えると、呆れたように言った。
「で、相談ってそれか? 茅に告白されて、どう返事するかで悩んでる……と」
陽介は黙って頷く。
「何だよそれ。っつーかそれをオレに相談するか普通? ――まあいいや、お前が鈍いのはよーく知ってるし」
遠く、歓声が聞こえる。ややあって、兼人が口を開いた。
「で、お前さ。茅のことをどう思ってるわけ?」
いつもの軽口からは想像もつかない、低いトーン。相変わらず兼人は目を伏せたままだ。
「少なくとも嫌いじゃないよ。一緒にいて楽しいし、想ってくれてるのも判るんだ。でも……」
「じゃあ何で悩んでんだよ」
陽介の言葉を遮って、兼人が問う。
そう、自分は一体なぜ悩んでいるんだろう。茅の気持ちは嬉しいのに、それを素直に受け入れていいのか判らないでいる。
黙りこんでしまった陽介に溜め息一つ、兼人は質問を変えた。
「じゃあさ、お前はどうしたい?」
それが判らないから相談しているのに――。陽介は、知らず苦い顔になる。
もし、茅の気持ちを受け取ったら……そう考えて、真っ先に浮かんだのは真露のことだ。自分は約束した。たとえ彼女自身が自分を避けようとも、その約束を守るってもう決めたのだ。しかし、もし茅を受け入れたら、多分もう逃げる真露を追えない。
だけど、もし茅を拒んだら。きっと茅を傷付ける。傷付けたことに、自分も傷付く。それは嫌だった。
「僕は――どうすればいいのかな」
「知るか。お前が決めろよ。っつーかお前、オレの話聞いてたか?」
陽介の呟きを拾って、兼人が言う。その口調は、いつもの軽い兼人に戻っていた。
「言ったろ。『どうしたいのか』ってな」
そうか。
僕は、だから悩んでいたのか。
僕は、真露を追いたい。だけど、茅を傷付けたくない。どちらも本当で、嘘じゃない。だから決められない。
でも、真露を追うことは誰も望んでいないんだ。当の真露すらも、僕を拒んでいるんだから。「すべき」で考えるなら、僕がすべきは決まっているはずなのに。なのに悩むのは、つまり――。
「兼人、僕……」
鉄柵を、強く握り締める。視線は遥か下、校庭に向いていても視界はそれを捉えていない。見えているのは、別のもの。
「オレに言ってどーすんだ、ヨースケ。……茅が待ってる、言って来い」
兼人の言葉に、陽介は頷いて走り出した。
決めた。正しいかは判らないけど、でも、決めた。
屋上を降りる直前、陽介は振り返って兼人を見た。その姿勢は変わらず、柵にもたれたままだ。陽介は親友に礼を言おうと口を開きかけて、止めた。今は、行かなきゃ。
茅のところに。
重い鉄扉が閉まる。
兼人はふーっと大きく息を吐くと、目を開けた。
「……ったく、茅もヨースケも。その無鉄砲さが羨ましいぜ、ホントに」
空を仰ぐ。紫苑の空が、やたらと寂寥感を煽る。
「『お前が決めろよ』か……」
いつの間にか、校庭は人気が無くなっていた。一人取り残されたような気分を味わいながら、兼人はただ、空をぼうっと眺める。
「結局、何も選ばなかったオレが言う台詞じゃなかったよな」
でも、だからってそれが悪かったとは思わない。それが一番いいと思ったからそうしたのだから、それは当然なのだ。それでも――。
「後先考えないで飛び出すってのも……悪くなかったかなぁ」
ま、オレのスタイルにゃ合わねぇよな。
一人苦笑を漏らして、陽介の消えた鉄扉に視線を向けた。
――何を選んだかは知らないけどさ、ちゃんと思ってること伝えろよ、ヨースケ……。
落ちていく夕陽の中。
兼人は再び、ゆっくりと目を閉じた。
◇
陽介が教室に戻ると、茅が待っていた。
「あ、やっと帰ってきた。ね、一緒に帰ろ?」
茅は、机の横に掛けてあった陽介の鞄を掴んで掲げた。陽介の足が止まる。
「茅。話が、あるんだけど」
切らした息を整えながら、陽介は切り出した。二人だけの教室に響く、堅い声。茅はゆっくりと、手にした鞄を机の上に置いた。
「何? どうしたの?」
小首を傾げる茅。陽介は、大きく息を吸い込んだ。
「この前の返事、しようと思って」
茅の表情が、一瞬強張る。言おう、言わなきゃ。
「僕、茅のこと嫌いじゃない。ううん、好きだよ。話も合うし、茅、親切だし。それに、一緒にいて楽しかった。ずっと一緒にいられたらいいなって、そう思えた」
斜めに差し込む夕陽が、教室を――茅の顔を照らしている。その顔は今、何を思っているのか。
だけど、と陽介は続ける。
「正直、そんなこと考えたこと無かったんだ。茅は茅で――大事な、友達だったから」
陽介の言葉に、空気が揺れる。
そして、それを口にした。
「だから、ごめん。茅の気持ちは嬉しいけど、僕は応えられない。友達以上には、考えられない」
茅の、痛そうな顔。彼女は何も答えず、時が凍ったかのような錯覚を受ける。
ややあって、沈黙を破ったのは茅だった。
「真露ちゃんのこと、好きなの?」
呟くように、漏らすように紡がれたその言葉に、陽介は静かに頷いた。
「判らないけど、多分。――真露を、忘れたくないんだ」
「あの娘は陽介を避けてるよ。それでも?」
祈るような、縋るような目だ。茅がこんな表情をするなんて、思っていなかった。
「うん。忘れるなんて、嫌だから。だから、決めたんだ」
そっか、という茅の呟きは、陽介の耳には入っていない。茅は再び陽介の鞄を手に取ると、陽介の方へと歩み寄った。
「ほら、もう遅いしさ。帰ろう」
いつもの笑顔で、茅は言う。
陽介は少し驚いた顔で、自分の鞄を受け取った。
「茅……」
「あ、あたしちょっと用事思い出したから、先に帰ってて。ごめんね、一緒に帰れなくて」
「それはいいけど……」
「それじゃ、また明日ね」
何度も振り返りながら、陽介が教室を出て行く。がらりと戸が閉められ、足音が遠のいていく。
再び教室に訪れる静寂。
――やっぱり、ダメ、だったか……。
茅は俯き、胸の痛みを堪える。判っていた。こうなることなんて、判っていたんだ。
だけど、私が自分で決めて、自分で選んだんだ。――他ならぬ、私自身の気持ちで。
これで良かった。私が選んだことは間違いじゃない。間違いでなんて、あってたまるものか。
だって、消えない。
彼が私に向けてくれた笑顔も、この痛みも、絶対に、嘘じゃない。確かにここにあって、消えて無くなったりなんかしないんだ。
私は、ちゃんと選んだ。何度同じ場面に遭ったって、同じ選択をしてみせる。後悔なんて、するもんか。
ぽたり、と落ちる雫が机を濡らす。跳ねて散り、夕陽を受けて朱に光る。
辛くないわけじゃないけど。
だから、今だけ。今だけは泣いてやる。
明日からまた、笑わなきゃ。
胸を張って、陽介の前で。