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朝露の約束

六、九月

 厳しい残暑を引き摺ったまま夏休みが終わりを告げ、二学期が始まった。
 「秘密の場所」での別れから、陽介は真露とまともに顔を合わせていない。否、真露の方で陽介を避けていた。
 真露は言及こそしなかったが、恐らく三十年前からここにいる。一年ごとに、全ての人々の記憶を更新して、異常が露呈しないように。
「で、お前はどうすんだよ、ヨースケ」
 明らかに態度の変わった真露を疑問に思った兼人たちが、事の次第を尋ねにきたのは至極当然の成り行きだった。一部始終を聞き終えた兼人は、これからどうするつもりかを、陽介に問う。
「真露のことを忘れちゃうなんて、嫌に決まってるじゃないか。僕が忘れる前に、そうならない方法を見つけるさ。絶対に」
 答える陽介に淀みは無い。しかし、現実問題としてその方法が見つかるかどうか、となれば話は別だ。
「でも、この変な状態って、多分〝悪魔〟の力によるものでしょ? お祓いの時もそうだったけど、〝悪魔〟にはあたしたちじゃ対抗出来ないよ」
「それでも……黙って何もしないなんて、僕には出来ない」
 恐らくは茅の言うことの方が正論だろう。解ってはいても、はいそうですかと素直に受け入れることなど、陽介には出来なかった。足掻くなんてみっともないとか、そんな事を考える余裕も無い。これを必死と言わずに、何と言うだろう。
「真露ちゃんが、陽介を拒んでいても?」
「それでも。決めたんだ、真露を絶対に助けるって」
 重ねられた茅の質問に答える声は揺るぎない。兼人は苦笑の混じった調子で言った。
「ま、お前がそう言うんなら止めはしないさ。何か出来ることがあったら言ってくれ。手伝いくらいはするからさ」
「うん、ありがとう、兼人」
 真露に拒まれたというのに、陽介は笑って兼人に礼を言う。どうして拒まれてまで、真露を助けようとするのだろうか。茅には、とても想像が出来ない。同時に――避けられてもなお助けようとしてくれる人を、どうして真露は拒むのか、これも理解しがたい。
 もし自分が真露だったら――きっと、嬉しいと思うのに。

 多くの学校がそうであるように、陽介たちの通う観桜中学校もまた、二学期というのは各種イベントの連続する、忙しい時期だ。校内は目下のところ、間近に控えた文化祭の話題で持ちきりである。
「陽介、文化祭のチームどうするの?」
 放課後、帰り支度をしているところに声をかけたのは茅。陽介は手を止めて、茅に向き直った。
「えっと、クラス単位じゃないんだよね、出し物って」
「ウチ、学年一クラスしかないからね。それじゃちょっと寂しいじゃない」
 そう言えば昨日、ホームルームで担任が出し物のチームを今週中に決めておけ、とか言っていたような気がするな……などと、陽介はぼんやりと思い出す。
「各クラスでチームを組んで、チームごとに出し物をするのよ。陽介は決まってるの?」
「僕は……」
 口を開きかけて、躊躇する。いつもの四人では、チームを組めない。
 隣の席には、もう誰も座っていなかった。真露は明るくて優しくて――誰からも好かれるはずなのに、不思議と友達と呼べる人はいない。自分を含めた三人を除いて。
 陽介を拒絶して以来、茅たちとも疎遠になっている。真露は、どうするのだろうか。
「ヨースケ、帰ろうぜ」
 ぽん、と肩を叩かれた感触に振り向くと、鞄を担いだ兼人が立っていた。
「あ、兼人。今陽介と話してたんだけどさ、あんたは文化祭のチーム、決まったの?」
「いや。ヨースケはどうせ決まってねぇだろうから、こいつと組もうかと思ってたんだけど。茅はどうすんの? 色々誘われてたじゃん」
「んー……そうねぇ……」
 二人のやりとりを黙って聞きながら、陽介は考える。このままだと、真露が孤立してしまう。拒絶された自分はともかく、兼人や茅と距離を置く必要など、真露には無いはずだ。
「兼人、お願いがあるんだけど」
 陽介の真剣な声音に、二人の会話がぴたりと止まる。真っ直ぐに兼人の目を見ながら、陽介は言った。
「文化祭のチーム、真露と組んでくれないかな」
 兼人は、一瞬答えに詰まったように押し黙る。どうやら、陽介の意図を量りかねているようだ。
「まぁ……別に構いはしねぇけどさ。じゃあお前はどうすんだよ。お前が来るとあいつ嫌がるんだろ? かと言ってお前、他に仲がいい奴いねぇじゃん。茅は予約殺到中だしさ」
「それは何とかするよ。頼まれてくれないかな」
 兼人はしばらく思案し、
「お前がそこまで言うなら、分かった、真露と組んでやるよ」
 そう、言った。
「じゃ、あたしは陽介と組もうかな」
 何となく暗くなった雰囲気を払拭するように、茅が明るく言う。
「えっ? でも茅、誘ってくれてた他の人はいいの?」
 社交的な茅は友人が多い。必然的にこういったイベントでは、引く手数多なのが常だ。そしてそれは今回においても例外ではない。
「いいよ。陽介放っておけないし」
 手をひらひらさせて、茅が言う。
「……ありがとう。それじゃ、よろしくね」
 陽介が差し出した手を、茅が握った。文化祭まで、日は無い。

 目下取り決めなければならないのは、出し物を何にするかだ。スケジュールが厳しいのもあるが、何より二人だけで行わなければならない。そうすると基本的に小規模なものしか出来ないことになる。
「やっぱり研究発表かしらね。陽介とあたしの組み合わせだから、日谷史でも調べる?」
「茅の家、資料たくさんあったよね。〝悪魔伝説〟の調査の時に、ある程度周辺も調べてるから、何とかなるかも」
 作戦会議は、陽介の家で行われている。茅の家は学校から見て反対側になるのだが、こちらの方が学校から近かったのだ。
「どうせやるんだから、ビシッと決めたいわよね」
「でも時間無いよ。資料の持ち出し移動だけでもだいぶ時間かかりそうだし……」
「じゃ、ウチに泊まりなよ」
 茅いわく、使っていない客間があるので、親に了解さえ取れば大丈夫なのだそうだ。確かに、資料の宝庫である大路神社に寝泊りできるのなら、学校以外全ての時間をそちらに回せる。
「えっと……じゃあ、もし邪魔じゃないなら。お願いしていいかな?」
「オッケー。それじゃお父さんに訊いてみるね」
 早速、といった様子で茅は携帯電話を取り出した。
 暮れゆく夕辺に蝉が鳴いている。夏の残滓は、まだ色濃い。

 それからは、まさに目の回るような忙しさだった。茅にせよ陽介にせよ、あまり計画性のある方ではない。茅が思い付きで研究範囲を広げ、陽介が必要以上に突っ込んで調べる。結果、到底期日までには間に合わないであろう量をこなさねばならなくなったのだ。
  放課後はすぐに家へ帰り、地元の人に話を聞きに行ったり神社では足りない分の資料を探しに行ったりし、夜は夜で神社の資料や取材した内容を取りまとめる。 作業は一時的に陽介へと宛がわれた客間で行われ、深夜まで及ぶことも珍しくなかった。そのまま寝てしまい、茅が自分の部屋に帰らないまま朝を迎えるなどと いうことも、ここ数日では珍しくない。
 朝から晩まで、ずっと陽介といる。
 それは茅にとって、家族を除いては初めての経験だった。
 陽介と、友達として過ごしてきた時間は決して長くないが、短いとは言えない。その時間の中で知っていたつもりだった、彼という人間。同じ時を過ごし、言葉を交える。その中で少しずつ見えてくる、知らない一面。それを見つけるたび、茅は嬉しくなってしまう。
 一度、こんなことがあった。
 いつものように作業中、机に突っ伏したまま眠ってしまった茅が目を覚ますと、肩に薄手の毛布が掛けられていた。顔を上げると、陽介はまだ資料をまとめている。
 これ、陽介が掛けてくれたの?
 そう問う茅に、一瞬驚いた顔をして見せた後、陽介は言ったのだ。
 ――最近、夜は冷えるから。
 そうして、いつものように無垢な笑顔を見せる。
 気付かなかった。陽介は、いつも真露ばかり見ているから。その笑顔が、自分に向けられるなんて、思っていなかった。
 どうしてだろう。陽介の目は、まだ真露しか見ていないはずなのに。どうしてこうやって、私に笑えるんだろう。
 恐らくは、茅自身も気付かないまま。
 彼女の中で、陽介の存在が、変わり始めていた。

「何とか、文化祭までに間に合いそうだね」
 夜。いつものように、客間で資料をまとめている。最終的に集落側まで含めた日谷史全体が対象になってしまったため、その量は膨大だ。よくもまあこれだけの量を、たった二人でまとめたものだと茅は我ながら感心してしまう。
「折角だしさ、大路神社もちょっと掘り下げようよ」
 陽介の顔には安心感からか、笑みが浮かんでいる。三日前は、それはもう悲愴な顔をしていた。テーブルに積み上げられた資料を見れば無理も無いのだが。
「祭具とか、写真で展示してみよっか。秘密道具みたいなのはダメだけど」
 秘密道具が何なのかは陽介には皆目見当が付かないが、どうやらあまり人目に付いてはいけないものらしい。
「その辺りの資料って、下の資料室にあったっけ?」
「ううん。貴重なのは、離れに蔵が造ってあるから」
 茅は、壁の時計を見る。資料を探すくらいの時間はあるだろう。
「それじゃ、一緒に行こっか」

 居間でくつろいでいる樹に一声掛けて、二人は貴重品が仕舞われているという蔵に向かった。靴を履き、玄関から裏側に回る。裏庭の奥に、土壁で出来たそれはあった。
 いかにもお宝が眠っていそうなその蔵は堂々とした佇まいで、随分古くから大路神社の祭具を守ってきたことを想像させる。往年の風雨に晒された外壁は今なお健在で、その堅牢な印象はこれを建築した大工の魂すら感じられた。
 が、ただ一点。
 入り口だけが、どうもそぐわない。
  茅は慣れた手付きで懐からカードキーを取り出すと、妙に真新しい扉の真横に取り付けられた、同じく新品を思わせる光沢を放つカードリーダーに通す。ピッと いう電子音と共に、カードリーダーで光っていたランプが赤から緑に変わり、エアシリンダーの動作音を残して扉が開いた。
「……ねぇ茅。どうしてドアだけこんななの?」
 喩えるなら、和室にベッドが置かれているような違和感というか、高級木製家具の棚板だけ何故かアルミ板になっているようなチグハグさというか、装備されているものは凄いはずなのだが、貫禄ある蔵の外観に負けてどうにも安っぽく見える。
「本人は防犯って言ってたけどね。ホントは、お父さんの趣味」
 溜め息一つ、茅が真っ暗な蔵の中に入る。陽介はもう一度、付け替えられたと思われるドアと蔵を見比べてから、その中へ足を踏み入れた。

 懐中電灯の灯りを頼りに、二人は蔵の中を物色する。ドアはあれだけ立派な防犯装置が付いていたのに、室内灯は設けられていない。偏重が見られる樹の趣味に恨み言を漏らしつつ、手分けして探していく。
 捜索開始から小一時間、陽介の腕には十分な量の資料が抱えられていた。おまけのようなものだし、これだけあれば事足りるだろう。
「茅、こっちは大体揃ったけど、そっちは?」
 祭具の類は茅に任せている。陽介は物音がする方向へ、懐中電灯を向けた。
「きゃあっ!」
 突然灯りを向けられた茅が悲鳴を上げる。彼女は脚立の上にいたのだが、突然のことに驚きバランスを崩してしまったのだ。落ちまいと無意識に掴んだ箱が、茅と一緒に崩れていく。
「茅っ!」
 陽介の視界から、茅が消える。咄嗟に落ちたのだと判断した陽介は、勘に任せて地面に滑り込んだ。

 茅は、恐る恐る目を開ける。使っていた脚立は、高さにして二メートルほど。その頂上から落ちたにしては、どこも痛くない。
「むむっ、無意識に受身を取るとは、さすがあたしねっ」
 意味も無く、ぐっと拳を握り締めガッツポーズ。身体を起こそうと床に手を付くと、何故かむにゅっとした感触が伝わってきた。
「茅……重いんだけど……」
「あーっ! それは女の子に言っちゃいけないお約束……」
「突っ込むところ違う……いいから……どいて――」
 つまるところ、陽介がクッションになってくれたらしい。茅は自分が持っていた懐中電灯を落とした時に紛失したらしく、陽介の持つ僅かな灯りだけで周りを確認すると、凄惨たる有様だった。
「とりあえず、一度外に出よう。下手に動かして、また上から降ってきたら危ないし」
 そう言って陽介は、蔵のドアに近付く。しかし、入った時に開け放たれていたドアは閉まっていた。
「やばっ、今の衝撃で誤動作起こしたのかも……」
 茅が口に手を当てる。陽介はドアに手を掛け横に引くが、びくともしない。
「無理よ。ここ、オートロックになってるし。よしんば鍵が開いてたとして、モーター式じゃないから手では開けられないわ」
 ドアの開閉は自動で行われ、駆動はエアシリンダーでなされている。一般的な自動ドアに用いられているモーター式なら手で開くことも易いが、これはそうもいかない。
 二人は、蔵に閉じ込められた。

 暗闇の中、比較的安全そうな場所へ二人は腰を下ろした。光源が僅かなので、自然と身を寄せて座ることになる。一応、ここへ来る時に樹へ声は掛けておいた。あとは戻ってこない自分たちを不審に思った彼が探しに来てくれるのを待つしかない。
「ごめんね、こんな事になっちゃって……」
「僕の方こそ。驚かせてごめん」
 すぐ近く、吐息さえ感じられそうな距離で陽介の声が聞こえる。そういえば、こんな近くに座ったのは初めてだ。とくん、と茅は、自分の心音が跳ねるのを感じる。
「――何とか間に合いそうだね、文化祭に」
 陽介が、手持ち無沙汰に懐中電灯を弄りながら言った。
「うん。もー一時はどうなるかと思ったわよ」
「それは茅が『あれもやろう、これもやろう』って言うからでしょ」
「えー? でも、陽介だってみっちり調べまくってたじゃない。ほら、『日谷林業の変遷』なんか、木材の出荷先とそこの他製品まで網羅しちゃって。アレ見たときあたし、悪い夢でも見てるのかと思ったんだからぁ」
 明るい声で喋る茅の口調は滑らかだ。
 こうして話すだけで、楽しい気分になるのは何故だろう。
 二人が共有していた時間、それを紐解くだけで、こんなにも笑顔になれる。
 ここ一週間あまりの日々は、二人だけのもの。陽介と自分しか知り得ない出来事で満ちていて、たとえ誰かから伝え聞こうとも、体験したのは二人だけ。二人だけの時間。なのに。
「――真露たちの方はどうなってるのかなぁ」
 なのに、どうして? どうして陽介は、今この時も真露しか見ていない?
「……うーん、どうだろうね。兼人は案外要領いいから、あたしたちよりもスムーズにいってるんじゃない?」
 今、ここにいるのは私なのに。隣にいるのは私なのに。
「ね、陽介。真露ちゃんの記憶を留める方法、見つかりそう?」
 解っている。意地悪な質問だって。だってあれからずっと、忙しかったのに。ずっと私と一緒にいて、そんなのを探している暇なんて無かったのに。そう、ずっと、私と、一緒だったのに。
 陽介が、黙って首を横に振る。茅は思わず、言ってしまった。
「見つかりそうにないならさ……諦めても、いいと思うけど」
「ダメだよ」
 間、髪を入れず陽介が答える。静かに、しかし、きっぱりと。
「僕は、真露を忘れたくないから。だから諦めないよ、絶対に」
 いつも通り、静かに笑いながら。陽介は、それを口にした。
 ホント、ずるいよね、真露。多分陽介は気付いてないけど、こんなにアンタへ好意を寄せてくれる人がいるのに、どうして逃げるのよ。
 ずるい。茅は真露を、そう思った。
 だけど、どうして? ずるいって、つまり、私なら逃げたりしない、羨ましいって意味で……。
 ああ、そうか。

 私、陽介が好きなんだ。

 でも、陽介は真露しか見ていない。もしも私が真露だったら、こんなに嬉しいことはないのに。
「もし――」
 止められなかった。
 茅は、不意に湧き上がってきた思いを、そのまま口にしてしまう。
「もしあたしが真露ちゃんだったら……〝悪魔〟になって、すぐにここから出られたのにね」
 あたし、何にも出来ないから。そう言って茅は、俯いた。
「――そんなこと、ないよ」
 陽介が、呟くように言った。
「茅、文化祭のチーム、色んな人から誘われてたろ? なのに、それ全部断って僕と組んでくれて、すごく嬉しかった。本当は、多分誰か他の子と組むだろうと思ってたからさ」
 陽介が照れくさそうに頭を掻いている。
「それに、茅と一緒にいて楽しいしさ。こういうハプニングも含めて、全部。だから、茅で良かったと思ってるよ、僕は」
 解るんだ。陽介は、慰めようとか、社交辞令でとか、そんなことで言ってない。
 それが解るからこそ、茅は嬉しかった。

 決めた。
 陽介は、真露しか見てないけど。自分の気持ちにも気付かないニブだけど。
 でも、だからって「はいそうですか」って引き下がれない。真露みたいに、何もしないで逃げたりしたくない。
 言うんだ。二人だけでいられる時間はあと僅かだけど、それが終わったら、この気持ちを。
 そりゃあ、真露に勝てるとは思ってないけど。でも、何も言わないで逃げるもんか。少なくとも、真露みたいには。

 二人を心配した樹に助けられたのは、それからほどなくしてからだった。惨憺たる蔵の中は次の日、陽介と二人で片付ける羽目になったが、それすらも茅には楽しかった。
 残された陽介との時間を、めいっぱい楽しもう。そして――。

 それぞれの思いを抱いたまま、少しずつ季節は秋へと移り変わっていく。

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