BLACK=OUT
第四章第一話:紅き模擬戦
暗く、ただ暗く。
其処は濁った底、コンクリートの谷間で、真昼であろうとも陽光は欠片も届かない。
咽返る腐臭に空気は澱み、黒く蒼く煙る。
時折響く銃声と、刹那を切り裂く裂帛と。
誰もいない、誰もいない。
彼女は、この場に長く立ち過ぎた。
目は、暗闇に慣れ。
鼻は、異臭に馴染み。
耳は、何も聴こえない。
アメリカのスラム、生と死が同じ意味しかなかったあの街で。
死ねない彼女は生きていた。
これが、彼女の原風景。
今の彼女を形作るもの。
ダン、と踏み込んだ左足へ、一息に加重する。
残された右足は、左へ向けて地を蹴った。
軸である左足は、前にある。
横へのベクトルは回転運動へと変換され、その足先は光の速さで弧を描き、目の前にいる目標の首を刈り取らんと大気を裂く。
「ぐっ……!」
敵は唸り、とっさに身を捻った。
ぶん、と一陣の風が、それまで頭のあった場所を駆け抜ける。
逃げ遅れた数本の髪が、はらはらと舞い落ちた。
「っくそ!」
後ろへと飛び退き、態勢を立て直そうとするも、それを許す彼女ではない。
相手がかわし、後方へ逃げることなど先刻承知の上だ。
「なっ……!?」
驚きは、対戦者である男のもの。
彼女は回転運動を殺さず、軸足である左だけで前方へと跳躍したのだ。
そのまま再び、先ほどは円運動だった右足を、男に向けて真っすぐに振り下ろしていく。
「ショルダーアウトっ!!」
響く鈍い音と共に、彼女の踵は男の左肩を捉えていた。
「ぐぁっ!!」
メンタルフォースにより、直撃する前にシールドを展開してはいるが、それだけで殺せる衝撃ではない。
彼女とて、全ての力を右足へ注ぎ込んだ一撃、そう易々と弾かれるはずが無いのだ。
打ち落とす剛撃、打ち抜かれる衝撃……!
男は、左肩を抑えてうずくまる。
最早、勝敗は決した。
「つっ……て、手加減しろよ、エレナ」
フィールドに展開された障壁が、赤から青へと変わる。
システムは、この戦闘を終了と判断し、全てのメンタルフォースを無効とする戦闘待機モードへと移行した。
「だから言ったじゃない。テクニカルユーザーの利光に、アタシのスパー相手は務まらないって」
呆れ顔で右手を差し出したエレナは、息一つ上がっていない。
痛みからか、疲れからか……肩で息をしている宮葉小路とは対照的だ。
「だってさ……」
差し出された右手を握り、ぐっと立ち上がる。
肩が痛むのか、表情は険しい。
「テクニカルユーザーだって、肉弾戦をせざるを得ない場合だってあるだろ。これはお前の訓練だけど……僕の訓練でもあるんだ」
「アタシは、訓練にもならなかったけど?」
しれっと返す。
一瞬の間を置き、がっくりとうなだれる宮葉小路。
「そ……そりゃあ解ってるけどさ……」
確かに、はっきり言って今彼と訓練をしたところで、大した意味はない。
少なくともこのフィールド程度の距離など、エレナにとっては無に等しいのだ。
距離を絶対の防壁とするテクニカルユーザーは、彼女の前では赤子も同然なのである。
まあ、それでも。
「何もしないと体鈍るし。アリガト、利光」
心から礼を言う。
宮葉小路とて、並みのインファイターでは触れることすら出来ぬ手練れなのだ。
勝負の緊張感は薄いが、さりとて油断できる相手でもない。
「いや……それより、僕もまだまだだな」
ふーっと息を吐き、宮葉小路は天を仰ぐ。
釣られて天井に目をやると、白色の照明が目に入った。
視線を戻し、宮葉小路の顔を見ると、彼の顔に緑の残像が映っている。
ちょっと、見づらい。
「テクニカルユーザーとしちゃ上等じゃない? フォートカルトの継承者と渡り合ってるんだから、優秀な部類に入ると思うよ」
フォートカルトの名を継ぐのは容易ではない。
メンタルフォース無くとも、銃を持つ相手十数人を、足技のみで倒さなければならないのだ。
脚部の筋力は、腕部のそれを大きく上回る。
それをいかに有効活用するか、それだけを徹底追及して生まれた武術らしい。
暗殺者集団の中で生まれた、特異な戦闘方法……それが、フォートカルト流脚殺術。
エレナの使う、足だけで敵を倒す武術なのだ。
「褒められてる気がしないな。大体、これじゃ訓練にならないだろう」
「そう? 利光も2年前、MFTを結成した頃と比べたら、ずっと動けるようになってるよ」
「ああ……」
あの頃は酷かったからな、と宮葉小路は苦笑いする。
アメリカからスカウトされて来日したエレナ。
自分の能力を知り、財閥からやって来た宮葉小路。
そしてもう一人、今はいないが、フランスから留学中だったジャックという青年。
この3人が、MFTのスターティングメンバーだった。
一年後、つまり昨年ジャックが除隊、入れ替わりにマークスが入隊した。
同時に、MFTにオペレーターの二人が配属されたのだ。
エレナと宮葉小路。
二人は、MFTにおける最古参の人物であることになる。
「あの頃だって、頭脳派の割には運動能力も高かったじゃない?」
「一般人にしては、だろ? 戦闘じゃ全く反応できなかった」
実戦どころか、模擬戦ですら対応出来ないのだ。
それでも、自分は後方支援だから、と割り切れないでいる宮葉小路の訓練に、彼女は何度付き合ったことか。
当時の宮葉小路の口癖……それは、
『だって、お前を守れないだろ』
だった。
訓練だって無理をして、光の如きエレナの俊足、鉛の如き右の蹴撃に何度打ち抜かれようと、口の端から鮮血を滴らせながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
そんなことをしても、実戦で矢面に立つのはエレナなのに。
だが、それでも。
命を奪うことしか知らなかった彼女にとって、宮葉小路の姿は眩しかったのだ。